October 7, 2009

ビーフステーキと昔の男

週末にムンバイのダウンタウンにある「インディゴ・カフェ」に行った。客席の半分がリッチな白人で埋まっている、もちろん残りの半分はリッチなインド人で埋まっている高級洋風カフェである。久々に予定のない週末の午後をカフェでビールでも飲みながらのんびり過ごそうと思って街に出たら、ふとなんだかすごく贅沢でおいしいものが食べたくてたまらなくなったのだ。

インディゴ・カフェでものを食べるのははじめてである。店内にはベーカリーがあり、輸入チーズ、ハムとソーセージ、前菜やディップ、キッシュのショーケースが並んでいる。壁一面にはめ込みのワインの棚が備え付けられている。おしゃれなのである。カフェに座りたくて並んでいる人と買い物に来ている人で店内はけっこう混雑している。メニューの値段は普段の私の生活の「まあまあ高級なごはん」の2~3倍ぐらいの値段である。

メニューには、ハムやソーセージの入ったサンドイッチ、ビーフバーガー、チーズフォンデュ、パスタなどいろいろある。普通のカフェじゃん、とインドにきたことがない人は言うかもしれない。しかし想像していただきたい。ポークでできたまともなハムやソーセージ、ましてやビーフなんてムンバイの街角の普通のカフェではめったに出していない。パスタは調理法が普及していないのか、レストランで食べるとたいてい5分ぐらいは茹で過ぎのおじや状態で出てくるし(持ち上げると切れるぐらいやわらかいのだ)、ソースは微妙にインド風なのが普通である。

そんなわけで、値段は高いし失敗はできないと思い、仔細にメニューを検分していたら、ビーフステーキがあるのに気付いた。ビーフステーキ。遠い響きである。考えてみたらビーフステーキなんてもう5年以上は食べていないはずだ。ひょっとすると、大学院1年目の時に家庭教師先のご家族にフランチャイズのステーキハウスに連れて行ってもらって食べた「ガーリックステーキ」が最後かもしれない。7年ぐらい前だ。かなり昔である。思い出をたどっているうちに、これはひょっとして今どうしても食べるべきなんじゃないかという気がしてきた。

私は牛肉がかなり好きなのだが、よく食べていたのはすき焼きやら焼肉、牛丼、カレーなどといった和風の牛肉料理ばかりで、ステーキみたいな食べ物にはあまり愛着がなかった。父親の洋食嫌いのおかげで子供のころにあんまり食べる機会がなかったからかもしれない。あるいは、ステーキという料理そのものが一般的に日常食としてなじまないのかもしれない。牛丼は毎日食べられるけれど、ステーキは毎日は食べられない。このあたりは人によっては異存があるかもしれません。ひょっとしたら夕食は毎日ファミレスのステーキ定食です、という人もわりといるのかもしれない。

ともかくステーキを注文したわけだが、これがものすごくおいしかった。まず焼きたてふわふわのパンとほどよく溶かしたバターがたっぷり届く。このパンがおいしい。ちゃんと卵を使って焼いてあって腰がある。普通のインドのパンはだいたいベジタリアン用に作られているので卵が使われておらず、持ち上げるとぼろぼろに崩れてしまうし、焼くとカリカリになってしまうのだ。パンを食べ終わるころにミディアム・レアに焼いた3センチぐらいの厚さの肉の塊がやってくる。ほろほろになったベイクド・ポテト、オーブンで丸焼きにしたかたまりのにんにくがついて、たっぷりのサワークリームとソースが添えてある。切ると牛肉の荒い繊維から肉汁が出てきてソースと混ざる。よく噛めば噛むほどあまい味が染み出してくる。食べる悦びが湧き出てくるかんじだ。

そうか、ステーキって、牛肉ってこんな風だったな…、と食べながら悦に入っていると、ふと、ステーキを食べる行為は昔付き合って別れたものすごくいい男にずっと後になってばったり再会し、一夜だけ盛り上がった状況にかなり近いのではないかと思いはじめた。別に普段は思い出しもしないんだけれど、ばったり出会ってみたらいまだに昔と同じようにかなりいい男なのである。昔のあれこれの思い出をめぐりながら二人で一瞬だけ盛り上がるのだが、盛り上がった後はもう満足してしまって、じゃあいつかと言って、連絡先も交換せずに別れるのである。うん、似ている。似ているといっても現実にそういう状況にめぐり合ったことは別にない。ただ、私とステーキとの気持ちの交流をたとえて説明すれば、それにかなり近いと言いたいのである。

そんなふうに私はステーキとの邂逅を終えて、満足した幸せな気持ちでカフェを出た。牛肉を食べるといつも「ああ、食べてよかったな」と思う。食べた肉のたんぱく質が吸収されて、体のくたびれた部分をどんどん補修して新しくしてくれるところを想像する。最近、会社の人事の人に呼ばれて、「顔色が悪いし痩せすぎているから毎日卵と牛乳を採って体を作りなさい」と注意を受けた。そんなことまで注意してくれるなんてびっくりするほど親切な人事課である。それをおもいだして、ああ、私の体にはチキンでは血が足りなかったんだ、と納得した。私に不足している栄養素は赤い肉なのだ。そんな理由をあれこれつけて、この先頻繁にステーキとの逢瀬に行くかもしれない自分を想像している。いつかは愛も生まれるかもしれない。

No comments:

Post a Comment