<お知らせ>
ブログを引越ししました。新しいURLはhttp://aikanoh.wordpress.com/です。英語ブログと日本語ブログを合体させたブログです。これからのポストは新ブログ上でアップデートしますので、よかったら訪問してください。よろしくおねがいします。
<お知らせ終わり>
ムンバイの町で迎える、3度目のディワリである。9月の終わりにナブラトリの祭りが始まり、それと同時に北インドの行商人が集まるクラフトフェアがやってきて、去年と同じ顔ぶれの商人が手織りの布や家具を売り、お祭りの終わりとともに去っていった。ナブラトリが終わるとすぐに街中がディワリ一色になる。ディワリは光の祭である。電飾が街中に施されて、歩道に灯篭やランタン、ろうそくや、ランゴリのための色鮮やかな粉を売る店がたくさん現れはじめる。
ディワリには、他のヒンドゥ教の祭とは違う落ち着きと親密さがある。ホーリーのような狂乱でもなければ、ガネーシャ祭のような遊び心でもない。ガネーシャ祭がお盆なら、ディワリは正月である。新年の夜の神社の灯篭の光や焚き火を思い出して、2年も日本の正月を見ていない私はいつもこの時期になると懐かしさに駆られる。
去年のディワリには、親しい人たちが立て続けに街を離れたこともあって、残った自分がいつ同じようにここを去るのかと思うと、祭の準備に忙しい街の様子がまるで未来に見る思い出の光景のように思えた。それから1年たち、今年はまた違った種類の感慨で街の風景を見つめている。自分が見つけた、自分の街にいる、という思いがしている。なんだか「魔女の宅急便」みたいだ。
なじみの店ができ、付き合いができ、路地裏の小さな露店まで町の地図が頭に書き込まれ、以前はいちいち動揺して人に助けを求めていたトラブルや問題が、当たり前の日常になりつつある。どこに甘えていいのか、何に警戒するべきなのか、力の入れ加減が体に刻み込まれていって、少しずつ楽になった。もう詳しくは覚えていないが、何度も何度も失敗したり、小さな詐欺や危ない目にあったり、そういう経験を単純に層にして、この街の記憶の塊のようなものの実がぎっしり詰まってきた感じがする。
どこにいようと人は変わらないし、変わらない限りどこにいて何をやっても同じだと言う人もいる。しかし、人は土地によってある程度変わることができると私は思う。その人の心が柔軟でさえあれば。新しい土地には、人を謙虚にし、目を開かせる力がある。わからないという気持ちが、注意を集中して、自分の思考の枠組みの外にあるものをそのままの姿でとらえようとする態度を作り出す。そうして外にあるものを素直に自分に組み込んでいくことで、ちゃんと人格にも変化が起こり、成長する。
街の記憶が密になることによって、自分の実もまたがっしりしていくような気がするのかもしれない。そのうちまた空っぽになりたくて自分はどこかに行くのだろうか。振り捨てなければならない辛い記憶もまた同じだけ増えて、密度を増していくのだろうか。それもまたいい。いつか新しい土地を求める時のために、あるいはいつか逃げ出してどこかに行かなければならない時のために、とにかくずっと、心だけは死ぬまでやわらかいままでいたいものだ。そうしたら、どこでも何とかなる。
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October 12, 2009
メンディ地獄
ディワリの準備でうきうきした街を歩いていたら、メンディの露店に出会った。メンディというのは、インドの女の人のおしゃれのひとつで、ヘナという染料で腕や足に模様を描くのである。ヘナは茶色い泥のような染料で、髪染めにも用いられる。肌にヘナの泥でケーキのデコレーションのように模様を描いて、乾かしてから泥をはがすと、肌が模様の通りに赤茶色に染まるのである。見た目は刺青のようにみえるけれど、1週間もすると消えてしまう。
ま、お祭だしね、と思って椅子に座ると、アーティストのお兄さんが、「片手?両手?」と聞いたので、「もちろん、両手、両面、全部おねがいねっ」と景気よくお願いした。以前会社のめぐみさんとはじめてメンディをやった時には手の甲の面にだけ模様を施したのだが、会社でインド人の女の子たちに見せたら、「手のひらもやんないとかっこわるいじゃん」と言われて悔しかったので、次の機会にはちゃんと両手両面をやろうと決めていたのである。
アーティストのお兄ちゃんは若く、仕事は速いがわりと雑であった。片手が終わった時、なにかヒンディ語で私に訴えかけてきたので、「何?」とこっちも一生懸命聞いていたのだが何を言っているのかわからない。しばらくやり取りがあって、どうやら「残りの手をやる前に代金を払ってくれないと、手が使えなくなって財布がかばんから出せなくなるから、今払え」と言っているのだとわかった。「ああ、それもそうだね」といって代金を払いながら、自分の置かれた状況に気付いてはっとした。考えてみれば兄ちゃんの言うとおりで、両手の裏と表に、それも指の先っちょまでヘナで模様を描かれてしまったら、ヘナが乾燥するまでの1時間、まったく何もできなくなる。
リキシャで家まで帰って財布から代金を払うこともできなければ、鍵をかばんから出して家のドアを開けることもできない。お腹が強烈にすいているのに気付いたが、道の露店でサモサや果物を買って食べるのも無理だし、家に帰って運よくルームメイトがなにか作っていたとしても、箸すら持てない。家までは時間をかければ歩いて帰られるとしても、ルームメイトがいなかったらどうしたらいいのか。携帯で電話をかけるのも無理だ。
私がぐるぐる考えている間に、お客が何度か立ち寄ってメンディの値段を聞いたり染料を買ったりしていった。家族で買い物途中の主婦や、夫とデート中の若い妻が「両手両面おねがい」と言っているのを聞きながら、ああ、この人たちは家族がいるからそんな気楽なことが言えるんだよな、ちくちょう、と恨めしい気持ちになった。家族連れならメンディの後にレストランにさえ入っちゃって、夫か姑かなんかがチャパティを小さくちぎってかいがいしく口に入れてくれるに違いない。うらやましい。
メンディ・アーティストが私の仕事を終え、両手の裏と表がヘナの模様でいっぱいになった。ありがとう、とお礼を言って店を出ようとすると、お兄さんが模様を崩さないようにそーっと私のショルダーバッグを肩にかけてくれ、「手のひらを広げてつっぱって、乾くまで模様にしわが入らないようにしないとだめだよ」と注意した。そうか、手のひらを広げて錆びたブリキのロボットみたいな状態でこのまま家まで40分近く歩かなきゃならないのか、と思うと複雑な思いでいっぱいになった。
手を硬直させて人がいっぱいの歩道を歩いていると、周りの人がよけてくれているのがわかってなかなか恥ずかしい。いつもの角にいる物乞いの女の子がかけてきたが、私の姿をみて「あ、今日はしつこくしちゃだめだな」と判断したのか、一度だけ私に声をかけただけで、私の硬直した両腕を見るとすぐに引き下がって去っていった。賢い子である。長い道のりを一人で歩き、自分のアパートの明かりが見えた時、気が緩んだのか肩から革のショルダーバッグの肩かけの部分が落ちてきて左の手首の模様をつぶしてしまった。
「げげっ」と叫んで模様を救おうとして肩掛けをずらすと、肩掛けについたヘナが左の二の腕にびーっと広がってしまった。大変である。そのまま乾いたら、二の腕に謎の茶色いあざのような模様がどでかく残ってしまって一週間は取れない。「ひょえー」と動揺して叫びながら、思わず右手で左腕を触ってヘナを取ろうとしたら、右手の指先にも模様があったことに気づいた。いろいろな部分を取り繕おうとして、いろいろな部分にヘナがへばりついたりはがれたりして、わけがわからない状態になって大混乱である。
あせって汗をかいて顔に髪がへばりついたが、指にもヘナの模様があるので髪をかきあげられない。誤まって染料が顔についたりしたら最悪である。一瞬パニックになったが、深呼吸をして気を取り直し、ルームメイトが家にいることにかけてダッシュで家まで帰った。染料が完全に乾く前に助けてもらわなければならない。
幸運なことに、ルームメイトはちゃんと家にいて、あわてた私を見てびっくりしていた。布を持ってきて腕についたヘナをはがしてくれ、アイスティーを作ってくれた。手が乾いていないのでアイスティーのグラスを持ち上げられず、あきらめてしばらく一緒にテレビを見た。一時間してヘナが乾いたときには、ほっとしてグラスのアイスティを一気に飲み干し、それから台所にあったジンを飲んで気持ちをおちつけ、ラーメンを作って食べた。もう深夜であった。
インドでひとりで生きるのは容易くない…。次にメンディを両手にやるときには誰かを誘って、ちゃんとご飯を食べてから行こうと心に決めた。でも友達と行って二人とも両手両面にメンディをやったら事態は同じである。やはりその誰かは家族か、男か、どっちかであるべきなのか。いや、友達と買い物の途中で行って、一時間交代でやればいいのか。などなどと、いろいろ思いをめぐらせる。まあ、勢いだけで生きるのではなく、ある程度の計画性は必要である、という戒めかもしれない。
ま、お祭だしね、と思って椅子に座ると、アーティストのお兄さんが、「片手?両手?」と聞いたので、「もちろん、両手、両面、全部おねがいねっ」と景気よくお願いした。以前会社のめぐみさんとはじめてメンディをやった時には手の甲の面にだけ模様を施したのだが、会社でインド人の女の子たちに見せたら、「手のひらもやんないとかっこわるいじゃん」と言われて悔しかったので、次の機会にはちゃんと両手両面をやろうと決めていたのである。
アーティストのお兄ちゃんは若く、仕事は速いがわりと雑であった。片手が終わった時、なにかヒンディ語で私に訴えかけてきたので、「何?」とこっちも一生懸命聞いていたのだが何を言っているのかわからない。しばらくやり取りがあって、どうやら「残りの手をやる前に代金を払ってくれないと、手が使えなくなって財布がかばんから出せなくなるから、今払え」と言っているのだとわかった。「ああ、それもそうだね」といって代金を払いながら、自分の置かれた状況に気付いてはっとした。考えてみれば兄ちゃんの言うとおりで、両手の裏と表に、それも指の先っちょまでヘナで模様を描かれてしまったら、ヘナが乾燥するまでの1時間、まったく何もできなくなる。
リキシャで家まで帰って財布から代金を払うこともできなければ、鍵をかばんから出して家のドアを開けることもできない。お腹が強烈にすいているのに気付いたが、道の露店でサモサや果物を買って食べるのも無理だし、家に帰って運よくルームメイトがなにか作っていたとしても、箸すら持てない。家までは時間をかければ歩いて帰られるとしても、ルームメイトがいなかったらどうしたらいいのか。携帯で電話をかけるのも無理だ。
私がぐるぐる考えている間に、お客が何度か立ち寄ってメンディの値段を聞いたり染料を買ったりしていった。家族で買い物途中の主婦や、夫とデート中の若い妻が「両手両面おねがい」と言っているのを聞きながら、ああ、この人たちは家族がいるからそんな気楽なことが言えるんだよな、ちくちょう、と恨めしい気持ちになった。家族連れならメンディの後にレストランにさえ入っちゃって、夫か姑かなんかがチャパティを小さくちぎってかいがいしく口に入れてくれるに違いない。うらやましい。
メンディ・アーティストが私の仕事を終え、両手の裏と表がヘナの模様でいっぱいになった。ありがとう、とお礼を言って店を出ようとすると、お兄さんが模様を崩さないようにそーっと私のショルダーバッグを肩にかけてくれ、「手のひらを広げてつっぱって、乾くまで模様にしわが入らないようにしないとだめだよ」と注意した。そうか、手のひらを広げて錆びたブリキのロボットみたいな状態でこのまま家まで40分近く歩かなきゃならないのか、と思うと複雑な思いでいっぱいになった。
手を硬直させて人がいっぱいの歩道を歩いていると、周りの人がよけてくれているのがわかってなかなか恥ずかしい。いつもの角にいる物乞いの女の子がかけてきたが、私の姿をみて「あ、今日はしつこくしちゃだめだな」と判断したのか、一度だけ私に声をかけただけで、私の硬直した両腕を見るとすぐに引き下がって去っていった。賢い子である。長い道のりを一人で歩き、自分のアパートの明かりが見えた時、気が緩んだのか肩から革のショルダーバッグの肩かけの部分が落ちてきて左の手首の模様をつぶしてしまった。
「げげっ」と叫んで模様を救おうとして肩掛けをずらすと、肩掛けについたヘナが左の二の腕にびーっと広がってしまった。大変である。そのまま乾いたら、二の腕に謎の茶色いあざのような模様がどでかく残ってしまって一週間は取れない。「ひょえー」と動揺して叫びながら、思わず右手で左腕を触ってヘナを取ろうとしたら、右手の指先にも模様があったことに気づいた。いろいろな部分を取り繕おうとして、いろいろな部分にヘナがへばりついたりはがれたりして、わけがわからない状態になって大混乱である。
あせって汗をかいて顔に髪がへばりついたが、指にもヘナの模様があるので髪をかきあげられない。誤まって染料が顔についたりしたら最悪である。一瞬パニックになったが、深呼吸をして気を取り直し、ルームメイトが家にいることにかけてダッシュで家まで帰った。染料が完全に乾く前に助けてもらわなければならない。
幸運なことに、ルームメイトはちゃんと家にいて、あわてた私を見てびっくりしていた。布を持ってきて腕についたヘナをはがしてくれ、アイスティーを作ってくれた。手が乾いていないのでアイスティーのグラスを持ち上げられず、あきらめてしばらく一緒にテレビを見た。一時間してヘナが乾いたときには、ほっとしてグラスのアイスティを一気に飲み干し、それから台所にあったジンを飲んで気持ちをおちつけ、ラーメンを作って食べた。もう深夜であった。
インドでひとりで生きるのは容易くない…。次にメンディを両手にやるときには誰かを誘って、ちゃんとご飯を食べてから行こうと心に決めた。でも友達と行って二人とも両手両面にメンディをやったら事態は同じである。やはりその誰かは家族か、男か、どっちかであるべきなのか。いや、友達と買い物の途中で行って、一時間交代でやればいいのか。などなどと、いろいろ思いをめぐらせる。まあ、勢いだけで生きるのではなく、ある程度の計画性は必要である、という戒めかもしれない。
September 29, 2009
大事なのは男女の愛か? -インドにおける結婚の価値観
先週の日曜日に、会社の上司の結婚式に出席した。一緒に行った同僚は、「これはいわゆるボリウッド式ね」と言っていた。会場は有名なお寺の結婚式場で、一応30分ほどヒンドゥ教のプジャが行われたが、かなり短い。その後カンタンなブッフェスタイルの食事。小ぢんまりして簡略化された現代的な式で、どちらの家族も特に宗教や伝統にはさほどかまってない、という印象である。
とはいえ、それが現代のインドのスタンダードかといえば、そうでもない。インドには日本にあるようなスタンダードや流行なんてない。それぞれの家族によって、保守的であるか進歩的であるかは家庭や個人によってぜんぜん違う。ある家庭では1週間以上かけて伝統的な結婚の儀式を行う。またある家庭では同じカーストであってさえ、生まれたコミュニティや細かい条件の違いで結婚を反故にする。そして、全く宗教に関係なく結婚するカップルや、結婚式に宗教色を入れないカップルもいるらしい。
インドにおいて、結婚はかなり不自由である。必ずしも愛し合っている恋人と一緒になれるわけではない。実際かなり難しい場合が多い。しかし、そういう宗教や文化によって生じる困難を後進的だと判断するのは単純すぎる。アレンジド・マリッジで幸せに一生を送るカップルはいっぱいいる。家族全員の幸せが一人の幸せであるという価値観に立てば、たった2人の愛し合う男女の幸福は、より公共の利益のために犠牲になる、という考え方だって別に間違ってはいない。
価値は相対的なのだ。正しい価値と誤った価値を見分ける方法もなければ、どの価値がより重要であるかを測るものさしもない。問題は価値そのものにあるのではなく、周りの圧力や無知によって価値を選べないことにある。たいていの人間は、自分が叩き込まれてきた価値観や、苦労して築き上げてきた価値観を世界で一番まともな考え方だと思いがちである。人間は伝統や文化のしばりから自由であればあるほど、それが人間のあるべき姿であり、幸福により近づく、と考えがちだが、実はそうとはかぎらない。
日本では最近「婚活」なんていう、聞くだけで疲れる言葉がはやっているらしいが、ラブ・マリッジの率が高くなればなるほど、結婚したいのに相手が見つからない若い男女があふれて困っているではないか。こういう報道を見ていると、あんまり日本も自由な国じゃないな、という気がする。
しかし、日本のいわゆる「婚活」現象は実に奇妙である。若い人たちは「別に結婚しなくてもよい」という自由を享受しているのにもかかわらず、結婚することをいまだに目標にしている。ヨーロッパのカップルみたいに、結婚しないままパートナーとして何年も連れ添って暮らしたり、気が向いたら子どもを作ったりして好きなようにのんびりやったらいいのに、なぜ日本人はそういう方向に向かわないのだろう?なにをやったって自由なんだから、もっと勝手にすればいいのに、意外とそういうのんきな世代が現れないのが実に不思議である。
そんなところを比較していると、自分の中の進歩と保守、あるいは後進という価値観の境界がどんどんあいまいになる。実にわからない。私個人としては、愛し合うカップルは自由に一緒になれなきゃ嫌だけれど、男女の愛を一番に追求して生きているわけではない人たちだって、世の中にはいっぱいいるのだ。
最近、ジュエリーショップのテレビCMで、こんなのがやっている。結婚1年と2ヶ月目の夫婦。「They arranged everything…」でストーリーは始まる。お見合い結婚で結ばれた二人。知らない同士が結婚してぎこちない結婚生活。それから、「And, we laugh…」、ちょっとずつ相手に慣れていく。そして1年2ヶ月目。「And we found…」お互いをはじめて見つけた二人。記念のプラチナ・ペアリング。これがインドの夫婦に指輪を売りつけるためのメッセージらしい。なかなか興味深いと思いませんか?
とはいえ、それが現代のインドのスタンダードかといえば、そうでもない。インドには日本にあるようなスタンダードや流行なんてない。それぞれの家族によって、保守的であるか進歩的であるかは家庭や個人によってぜんぜん違う。ある家庭では1週間以上かけて伝統的な結婚の儀式を行う。またある家庭では同じカーストであってさえ、生まれたコミュニティや細かい条件の違いで結婚を反故にする。そして、全く宗教に関係なく結婚するカップルや、結婚式に宗教色を入れないカップルもいるらしい。
インドにおいて、結婚はかなり不自由である。必ずしも愛し合っている恋人と一緒になれるわけではない。実際かなり難しい場合が多い。しかし、そういう宗教や文化によって生じる困難を後進的だと判断するのは単純すぎる。アレンジド・マリッジで幸せに一生を送るカップルはいっぱいいる。家族全員の幸せが一人の幸せであるという価値観に立てば、たった2人の愛し合う男女の幸福は、より公共の利益のために犠牲になる、という考え方だって別に間違ってはいない。
価値は相対的なのだ。正しい価値と誤った価値を見分ける方法もなければ、どの価値がより重要であるかを測るものさしもない。問題は価値そのものにあるのではなく、周りの圧力や無知によって価値を選べないことにある。たいていの人間は、自分が叩き込まれてきた価値観や、苦労して築き上げてきた価値観を世界で一番まともな考え方だと思いがちである。人間は伝統や文化のしばりから自由であればあるほど、それが人間のあるべき姿であり、幸福により近づく、と考えがちだが、実はそうとはかぎらない。
日本では最近「婚活」なんていう、聞くだけで疲れる言葉がはやっているらしいが、ラブ・マリッジの率が高くなればなるほど、結婚したいのに相手が見つからない若い男女があふれて困っているではないか。こういう報道を見ていると、あんまり日本も自由な国じゃないな、という気がする。
しかし、日本のいわゆる「婚活」現象は実に奇妙である。若い人たちは「別に結婚しなくてもよい」という自由を享受しているのにもかかわらず、結婚することをいまだに目標にしている。ヨーロッパのカップルみたいに、結婚しないままパートナーとして何年も連れ添って暮らしたり、気が向いたら子どもを作ったりして好きなようにのんびりやったらいいのに、なぜ日本人はそういう方向に向かわないのだろう?なにをやったって自由なんだから、もっと勝手にすればいいのに、意外とそういうのんきな世代が現れないのが実に不思議である。
そんなところを比較していると、自分の中の進歩と保守、あるいは後進という価値観の境界がどんどんあいまいになる。実にわからない。私個人としては、愛し合うカップルは自由に一緒になれなきゃ嫌だけれど、男女の愛を一番に追求して生きているわけではない人たちだって、世の中にはいっぱいいるのだ。
最近、ジュエリーショップのテレビCMで、こんなのがやっている。結婚1年と2ヶ月目の夫婦。「They arranged everything…」でストーリーは始まる。お見合い結婚で結ばれた二人。知らない同士が結婚してぎこちない結婚生活。それから、「And, we laugh…」、ちょっとずつ相手に慣れていく。そして1年2ヶ月目。「And we found…」お互いをはじめて見つけた二人。記念のプラチナ・ペアリング。これがインドの夫婦に指輪を売りつけるためのメッセージらしい。なかなか興味深いと思いませんか?
September 25, 2009
有機アパート
ムンバイにあるうちのアパートには、この季節になるとどういうわけかみのむしが発生する。長さが1センチから2センチぐらい、幅が2、3ミリのかなり小さなみのむしで、よく見ないとただのほこりの塊にしかみえない。これが、白い漆喰の壁にぽつぽつとついていてなかなか不気味である。
私は虫が大の苦手なのだが、みのむしは小さいながらも自分で家も構えているし、特に動きもしないで壁に引っ付いているだけなので、まあそういうことならご自由に、というかんじで見逃してやっている。何日も朝から晩まで壁に引っ付いたまままったく動く気配がなく、どういうつもりで生きているのか謎だし、どこで食物を手に入れているのか、男女がどこで出会って繁殖しているのか不思議であるが、それは私には関係がない。まあ大して関心もないといっていい。
最近、ヤモリもどういうわけか大発生している。家にいてボーっとしていると、しょっちゅうヤモリと目が合う。3センチぐらいの生まれたばっかりのから、7センチぐらいの大きなやつまでいるから、一応家の中で繁殖しているに違いない。ヤモリは爬虫類だから、どこかに卵を産んでいるはずなのだが、一度も発見したことはない。あるいは外の草むらで繁殖して、亀みたいに生まれてすぐ7階までどんどんのぼってくるのかもしれない。
ゴキブリとネズミ、ハトについては言わずもがなである。このムンバイの3大嫌われ者たちは、勝手に外で生きていれば別にこっちも文句は言わないのだが、人間の生活空間にどんどん入ってきて荒らすわけだから、こっちとしては懲罰して当然である。この点カラスや野良犬は自立して暮らしているので、私としては特に文句を言う筋合いではない。
ハトに関しては、部屋の窓を開けておくとどんどん飛び込んでくるので非常に困る。日曜なんかに窓を開けて昼寝をしていると、ハトがカーテンを突き抜けて飛び込んできて、自分で飛び込んだくせに大パニックに陥る。別に静かに入ってきて、「あ、すいません」と言って出て行ってくれるのならこっちとしても別に「あ、そう」と言って済ませられるものを、こっちが悪いみたいに大騒ぎしてい部屋中を飛び回るもんだからかなり迷惑である。
一度は窓を閉めわすれて出かけて、家に帰ってくると、2匹のハトが並んで私の布団の上で寝ていたことがあった。これらのハトは、2匹いたから心強かったのか知らないが妙に落ち着いており、私がドアを開けると、「あ、帰ってきちゃったね」、「ね」、みたいなかんじで顔を見合わせて、特に騒ぎもせずに歩いて窓から出て行った。奇妙な二人組みであった。
かわいい生き物がぜんぜんいない、というのがムンバイの特徴のひとつだ。しかし虫であれ、鳥であれ、動物であれ、共生できるか否かの境界線は、互いの物理的、心理的なパーソナルスペースをどれだけ侵さずにやっていけるかというところだろう。ゴキブリだって、あんなに速く歩きまわって人を驚かせなければさほど嫌われることはなかったに違いない。他者とはそういうものである。
一方で、自分の好きな対象や相手については話はまったく逆である。呼んでも絶対そばに来ないような猫は飼っていても悲しいだけである。誰に、どれだけ近づいてほしいか、自分の生活を邪魔しちゃってほしい物事や相手はだれか。そういう自分のごく生理的な反応に実はすべての答えがあるのだ。
私は虫が大の苦手なのだが、みのむしは小さいながらも自分で家も構えているし、特に動きもしないで壁に引っ付いているだけなので、まあそういうことならご自由に、というかんじで見逃してやっている。何日も朝から晩まで壁に引っ付いたまままったく動く気配がなく、どういうつもりで生きているのか謎だし、どこで食物を手に入れているのか、男女がどこで出会って繁殖しているのか不思議であるが、それは私には関係がない。まあ大して関心もないといっていい。
最近、ヤモリもどういうわけか大発生している。家にいてボーっとしていると、しょっちゅうヤモリと目が合う。3センチぐらいの生まれたばっかりのから、7センチぐらいの大きなやつまでいるから、一応家の中で繁殖しているに違いない。ヤモリは爬虫類だから、どこかに卵を産んでいるはずなのだが、一度も発見したことはない。あるいは外の草むらで繁殖して、亀みたいに生まれてすぐ7階までどんどんのぼってくるのかもしれない。
ゴキブリとネズミ、ハトについては言わずもがなである。このムンバイの3大嫌われ者たちは、勝手に外で生きていれば別にこっちも文句は言わないのだが、人間の生活空間にどんどん入ってきて荒らすわけだから、こっちとしては懲罰して当然である。この点カラスや野良犬は自立して暮らしているので、私としては特に文句を言う筋合いではない。
ハトに関しては、部屋の窓を開けておくとどんどん飛び込んでくるので非常に困る。日曜なんかに窓を開けて昼寝をしていると、ハトがカーテンを突き抜けて飛び込んできて、自分で飛び込んだくせに大パニックに陥る。別に静かに入ってきて、「あ、すいません」と言って出て行ってくれるのならこっちとしても別に「あ、そう」と言って済ませられるものを、こっちが悪いみたいに大騒ぎしてい部屋中を飛び回るもんだからかなり迷惑である。
一度は窓を閉めわすれて出かけて、家に帰ってくると、2匹のハトが並んで私の布団の上で寝ていたことがあった。これらのハトは、2匹いたから心強かったのか知らないが妙に落ち着いており、私がドアを開けると、「あ、帰ってきちゃったね」、「ね」、みたいなかんじで顔を見合わせて、特に騒ぎもせずに歩いて窓から出て行った。奇妙な二人組みであった。
かわいい生き物がぜんぜんいない、というのがムンバイの特徴のひとつだ。しかし虫であれ、鳥であれ、動物であれ、共生できるか否かの境界線は、互いの物理的、心理的なパーソナルスペースをどれだけ侵さずにやっていけるかというところだろう。ゴキブリだって、あんなに速く歩きまわって人を驚かせなければさほど嫌われることはなかったに違いない。他者とはそういうものである。
一方で、自分の好きな対象や相手については話はまったく逆である。呼んでも絶対そばに来ないような猫は飼っていても悲しいだけである。誰に、どれだけ近づいてほしいか、自分の生活を邪魔しちゃってほしい物事や相手はだれか。そういう自分のごく生理的な反応に実はすべての答えがあるのだ。
September 17, 2009
インド話は尽きない
最近、以前のルームメイトであるたまこが人類学の調査でVashiの街に滞在している。久しぶりに会って話していてまた改めて、インドに住んでいると、インドについて語るべきことは永遠に出てきてぜんぜん果てがないと感じている。たぶんすんなり理解できない文化がたくさんありすぎるからだろう。
どんなにこちらでの生活に慣れても、ムンバイの生活にはなんだかよく事情がわからないことばかりである。言葉が不自由なので、文脈からその場の状況を推測する特殊な能力がかなりついてきたけれど、やはり社会の不文律や言葉にされない社会的事情の細部がよくわからない。日本では起こらないようなことが日常茶飯事のほうに起こるし、その解決のプロセスもあまりにもちがう。気になることがありすぎて、誰と話し始めてもインド談義は延々と終わることがない。
面白いことに、これは外国人だけの傾向ではない。インド人もまた、インドについて語りだすと果てなく話し続ける。自分の家庭の伝統や風習について語り、その風習が同一宗教内の他のミュニティとどんなふうに違うかについて語り、インドのスピリチュアリティについて語り、ビジネスについて語り、政治について語り、家庭で話されている複数の言語と先祖の起源について語る。彼らもまた、自分たちの細分化された文化の多様性に興味津々であり、語ることで日々自己発見をしているようにうかがえる。
意外というべきか、当然というべきか、ヒンドゥ教徒のインド人は隣人であるイスラム、シーク、キリスト教の文化についてほとんどといって語らない。他の宗教に属するインド人も同様である。例え隣どうしに住んでいても、彼らはお互いに文化を共有しておらず、あまり自分以外の宗教についてよく知らないし、強い関心もないようである。少なくとも私は周りの人からそんな印象をうける。さまざまな種類の宗教や文化が並列して存在しながら、混ざり合っていない。インドの文化は水質性ではなく、固体性なのである。一緒にまぜても、コーヒーと牛乳のようにカフェオレ色にならない。赤い小豆と白い大豆を混ぜたみたいに、個々の色と形状はそのままに残っている。
「わかった」と言えるときが、誰にとってもおそらくずっと来ないのがインドであろうと思う。永久に話し続けられるし、永久に書き続けられる。人はその文化を混沌と形容する。私はいつも生活の視点からしかインドを見ていないが、どんな角度からでも、高みからでも底辺からでも、切り口は無限にあって、ほんとうに果てしない。インド人でも外国人でも、人がそれぞれの立場から語るインドには、新しい定義と魅力がある。
※会社の日刊メルマガでもインド情報を配信しているので、インドについてもっとコネタが欲しい方はぜひ登録してください。
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どんなにこちらでの生活に慣れても、ムンバイの生活にはなんだかよく事情がわからないことばかりである。言葉が不自由なので、文脈からその場の状況を推測する特殊な能力がかなりついてきたけれど、やはり社会の不文律や言葉にされない社会的事情の細部がよくわからない。日本では起こらないようなことが日常茶飯事のほうに起こるし、その解決のプロセスもあまりにもちがう。気になることがありすぎて、誰と話し始めてもインド談義は延々と終わることがない。
面白いことに、これは外国人だけの傾向ではない。インド人もまた、インドについて語りだすと果てなく話し続ける。自分の家庭の伝統や風習について語り、その風習が同一宗教内の他のミュニティとどんなふうに違うかについて語り、インドのスピリチュアリティについて語り、ビジネスについて語り、政治について語り、家庭で話されている複数の言語と先祖の起源について語る。彼らもまた、自分たちの細分化された文化の多様性に興味津々であり、語ることで日々自己発見をしているようにうかがえる。
意外というべきか、当然というべきか、ヒンドゥ教徒のインド人は隣人であるイスラム、シーク、キリスト教の文化についてほとんどといって語らない。他の宗教に属するインド人も同様である。例え隣どうしに住んでいても、彼らはお互いに文化を共有しておらず、あまり自分以外の宗教についてよく知らないし、強い関心もないようである。少なくとも私は周りの人からそんな印象をうける。さまざまな種類の宗教や文化が並列して存在しながら、混ざり合っていない。インドの文化は水質性ではなく、固体性なのである。一緒にまぜても、コーヒーと牛乳のようにカフェオレ色にならない。赤い小豆と白い大豆を混ぜたみたいに、個々の色と形状はそのままに残っている。
「わかった」と言えるときが、誰にとってもおそらくずっと来ないのがインドであろうと思う。永久に話し続けられるし、永久に書き続けられる。人はその文化を混沌と形容する。私はいつも生活の視点からしかインドを見ていないが、どんな角度からでも、高みからでも底辺からでも、切り口は無限にあって、ほんとうに果てしない。インド人でも外国人でも、人がそれぞれの立場から語るインドには、新しい定義と魅力がある。
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September 8, 2009
「愛」についてのそれていく話
今週はすさまじい量の仕事に追われて気持ちが殺伐としているので、愛についてつれづれなるままに語ろうと思う。
マラティ語で「アイ」は「お母さん」という意味なんだそうだ。だからムンバイに住んでいて自分の名前を言うと、「え?」という顔をされることが非常にひんぱんにある。家族連れがいっぱいのショッピングモールの食堂なんかでごはんを食べていると、子どもが「アイー」とおかあさんを呼ぶ声がいろんなところから聞こえてきて、いちいち振り返ってしまう。
インドのオフィスでは英語が公用語なのだが、「Ai」 は 「I am」 の「I (私)」 と発音が同じなので、時々混乱を生じる。例えば仕事の打ち合わせをしていて、「アイ ウィル ドゥ ザット」 と誰かが言ったとき、Aiがやりますよ、といいたいのか、自分がやります、と言いたいのかがとっさにわからない。そのため、混乱を避けるために「Ai Kanoh will do that.」 とフルネームで言われることがしばしばである。「アイカノウ、ランチもう食べた?」とか聞かれるとかなり違和感があるものの、まあ仕方ないから我慢している。
谷川俊太郎さんの詩にこんなのがある。
悲しみは むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこにある むきかけのりんご
感情はその場限り、対象に宿る。悲しみだけでなく、愛も同じだ。ひざの上の猫や、流しに立てかけられたぬれたままの食器や、朝のさめた湯たんぽや、書いたけど出さないままの手紙や、そういうもの、それそのものの中にあるわけで、だから優しい言葉や態度や、愛を表現するための特別な媒介はいちいち必要ないといってもいい。感受性さえあれば。
人間の感受性はとても偏っているので、たとえば机に置きっぱなしになったコーヒーカップ一つを見ても、そこに悲しみを見る人もいれば愛を見る人もいる。恋人のぶっきらぼうを無関心と取るか、信頼と取るかも、その人、そのときによって変わる。もしそれがある程度自分の心がけしだいでコントロールできるものなら、愛とか、なるべくよきものをいつもそこに見ていたい。
教師が一途に信頼することによって生徒を成長させるように、意外なことに、対象になにを見出すかによってその対象そのものが現実に姿を変えていく。だからせめて自分からの視線は常にあたたかいものにして、そういうソフトな方法で物事を変化させていけたらいい。
という、それつづける愛についての話であった。
マラティ語で「アイ」は「お母さん」という意味なんだそうだ。だからムンバイに住んでいて自分の名前を言うと、「え?」という顔をされることが非常にひんぱんにある。家族連れがいっぱいのショッピングモールの食堂なんかでごはんを食べていると、子どもが「アイー」とおかあさんを呼ぶ声がいろんなところから聞こえてきて、いちいち振り返ってしまう。
インドのオフィスでは英語が公用語なのだが、「Ai」 は 「I am」 の「I (私)」 と発音が同じなので、時々混乱を生じる。例えば仕事の打ち合わせをしていて、「アイ ウィル ドゥ ザット」 と誰かが言ったとき、Aiがやりますよ、といいたいのか、自分がやります、と言いたいのかがとっさにわからない。そのため、混乱を避けるために「Ai Kanoh will do that.」 とフルネームで言われることがしばしばである。「アイカノウ、ランチもう食べた?」とか聞かれるとかなり違和感があるものの、まあ仕方ないから我慢している。
谷川俊太郎さんの詩にこんなのがある。
悲しみは むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこにある むきかけのりんご
感情はその場限り、対象に宿る。悲しみだけでなく、愛も同じだ。ひざの上の猫や、流しに立てかけられたぬれたままの食器や、朝のさめた湯たんぽや、書いたけど出さないままの手紙や、そういうもの、それそのものの中にあるわけで、だから優しい言葉や態度や、愛を表現するための特別な媒介はいちいち必要ないといってもいい。感受性さえあれば。
人間の感受性はとても偏っているので、たとえば机に置きっぱなしになったコーヒーカップ一つを見ても、そこに悲しみを見る人もいれば愛を見る人もいる。恋人のぶっきらぼうを無関心と取るか、信頼と取るかも、その人、そのときによって変わる。もしそれがある程度自分の心がけしだいでコントロールできるものなら、愛とか、なるべくよきものをいつもそこに見ていたい。
教師が一途に信頼することによって生徒を成長させるように、意外なことに、対象になにを見出すかによってその対象そのものが現実に姿を変えていく。だからせめて自分からの視線は常にあたたかいものにして、そういうソフトな方法で物事を変化させていけたらいい。
という、それつづける愛についての話であった。
August 7, 2009
病来る ―インドの病院と家族愛
インドで暮らし始めてから、発熱性の疾患に少なくとも10回以上かかっている。ちょっと喉が痛いなー、と思うと、翌日には39度とか40度の激しい熱が一気に出る。どういうわけか、こんなに病気にかかっているのにさっぱり免疫ができない。インドの細菌が強力なのか、あるいはまわりに細菌が多すぎるのだろうと思う。
7月から仕事が忙しくて疲れがたまっていたので、週末は仕事を休んでゴアにでも行ってのんびり海を見ながらゴアカレーでも食べようかなーと考えていたのに、それどころではない。たまった疲労を解消する前に、病気が先に私を見つけたようだ。会社の極東アジア社員連名(単に台湾、韓国、日本出身のスタッフの集まりです)の清栄のみんなが企画した、三国料理パーティーにも行けない。会社のピクニックにも行けない。楽しそうな企画にいっこも参加できない。このままだと病気になるとわかっていただけにものすごく悔しいけれど、よくあることである。
一人で暮らしていると、病気になったときの処理能力がだんだんついてくる。今回なんか、まだ熱が出始めてもおらず、ほとんど症状がない時に、「あ、来る」と気づいてすかさずスーパーマーケットに行き、病気のときに食べられるものと飲み物をそろえた。総合病院に行って、医者に「熱は出てないんだけどもうすぐ出ると思う。死ぬほど寒いからマラリアの検査をしてくれ」と頼んで、夜には感染テストを一通り済ませて薬をもらった。なんでもなかったんだけれど、最近会社の女の子がマラリアにかかったのに、誤診で1週間もちゃんとした治療が受けられなかったので、念のためチェックしたのだ。
ちなみに、ムンバイのような大都市でも、街の機能は家族単位で暮らす人々のために作られていて、一人暮らしの人間には優しくない。病院に行って診察を受けると、簡単なチェックをした後で、「家族かだれか付き添いの人はいるか」と聞かれる。いない、と答えると、「じゃあ自分で受付に行って、まず診察代を払って来なさい」と言われる。この受付とやらが、病気の身で歩いていくにはちょっと遠い。お金を払って医者のところに戻ると、「じゃあ、血液検査をするから、もう一回受付に行って血液検査代を払ってきなさい」と言われる。「えー、また?」と文句を言っても、誰も代わりに行ってくれない。お金を払って、今度は自分で血液検査のカウンターまで行く。血液を採取すると、「夕方ここに結果を取りに来て、それから医師のところにもう一回行ってください」と言われる。一箇所に機能をまとめといてよ、と思うのだが、どうしてかそういうシステムになっていない。
入院したときなんかはもっと大変で、医者が処方箋を出すと、患者かその家族が薬や点滴、注射器をいちいち薬局まで買いに行かないといけない。付き添いなしで入院したりしたら、点滴が必要なほど体調が悪いのに、ベッドから起き上がって自分で薬局まで行って点滴のバッグを買いにいかなければならない。どういう理屈でこんな不便なシステムになっているのかはわからない。
まあとにかく、こういう大変さを何回も経験済みなゆえに、「病院には病気が本格的に悪化するまえに行くべし」という教訓を身にしみて学んでいる。人間、痛い目を見れば多少は賢くなるものだ。不便さからは逃れられない運命である。
今朝起きてみると、料理上手のルームメイトが野菜たっぷりのおじやを作っておいてくれた。ほかほかのおじやを食べながら、インドで暮らす人々は、多分こんな家族の愛で病気に打ち勝つんだろう、と考えた。もちろん、超強力な抗生物質の力を借りながらだけれども。(ちなみに、日本ではだいぶ前から病院で抗生物質をあんまり出さない方針になっていると思うんですが、インドの病院でもらった抗生物質をがんがん飲んでいるとどんな悪いことがおきるのか、知っている人がいたら教えてください。)
7月から仕事が忙しくて疲れがたまっていたので、週末は仕事を休んでゴアにでも行ってのんびり海を見ながらゴアカレーでも食べようかなーと考えていたのに、それどころではない。たまった疲労を解消する前に、病気が先に私を見つけたようだ。会社の極東アジア社員連名(単に台湾、韓国、日本出身のスタッフの集まりです)の清栄のみんなが企画した、三国料理パーティーにも行けない。会社のピクニックにも行けない。楽しそうな企画にいっこも参加できない。このままだと病気になるとわかっていただけにものすごく悔しいけれど、よくあることである。
一人で暮らしていると、病気になったときの処理能力がだんだんついてくる。今回なんか、まだ熱が出始めてもおらず、ほとんど症状がない時に、「あ、来る」と気づいてすかさずスーパーマーケットに行き、病気のときに食べられるものと飲み物をそろえた。総合病院に行って、医者に「熱は出てないんだけどもうすぐ出ると思う。死ぬほど寒いからマラリアの検査をしてくれ」と頼んで、夜には感染テストを一通り済ませて薬をもらった。なんでもなかったんだけれど、最近会社の女の子がマラリアにかかったのに、誤診で1週間もちゃんとした治療が受けられなかったので、念のためチェックしたのだ。
ちなみに、ムンバイのような大都市でも、街の機能は家族単位で暮らす人々のために作られていて、一人暮らしの人間には優しくない。病院に行って診察を受けると、簡単なチェックをした後で、「家族かだれか付き添いの人はいるか」と聞かれる。いない、と答えると、「じゃあ自分で受付に行って、まず診察代を払って来なさい」と言われる。この受付とやらが、病気の身で歩いていくにはちょっと遠い。お金を払って医者のところに戻ると、「じゃあ、血液検査をするから、もう一回受付に行って血液検査代を払ってきなさい」と言われる。「えー、また?」と文句を言っても、誰も代わりに行ってくれない。お金を払って、今度は自分で血液検査のカウンターまで行く。血液を採取すると、「夕方ここに結果を取りに来て、それから医師のところにもう一回行ってください」と言われる。一箇所に機能をまとめといてよ、と思うのだが、どうしてかそういうシステムになっていない。
入院したときなんかはもっと大変で、医者が処方箋を出すと、患者かその家族が薬や点滴、注射器をいちいち薬局まで買いに行かないといけない。付き添いなしで入院したりしたら、点滴が必要なほど体調が悪いのに、ベッドから起き上がって自分で薬局まで行って点滴のバッグを買いにいかなければならない。どういう理屈でこんな不便なシステムになっているのかはわからない。
まあとにかく、こういう大変さを何回も経験済みなゆえに、「病院には病気が本格的に悪化するまえに行くべし」という教訓を身にしみて学んでいる。人間、痛い目を見れば多少は賢くなるものだ。不便さからは逃れられない運命である。
今朝起きてみると、料理上手のルームメイトが野菜たっぷりのおじやを作っておいてくれた。ほかほかのおじやを食べながら、インドで暮らす人々は、多分こんな家族の愛で病気に打ち勝つんだろう、と考えた。もちろん、超強力な抗生物質の力を借りながらだけれども。(ちなみに、日本ではだいぶ前から病院で抗生物質をあんまり出さない方針になっていると思うんですが、インドの病院でもらった抗生物質をがんがん飲んでいるとどんな悪いことがおきるのか、知っている人がいたら教えてください。)
July 21, 2009
寿司と日本人アイデンティティ
最近家族がそろそろ日本に帰ってこいとアピールしてくる。父は「日本人の平均寿命はどんどん延びている。それに比べてインドは空気汚染と水質汚染もひどく環境が悪いらしい。だから早く日本に帰ってこないと、長生きできないぞ」と寿命を理由に脅してくる。母のほうは、「私はどうでもいいんですけど」と言いながら、「ところで、あなたの歯科助手のお友達が最近結婚して仕事をやめたから、近所の歯科医院でスタッフを募集してるよ」と軽くプレッシャーをかけつつ転職をすすめてくる。
心配してくれる人がいるのはありがたいことだと思います。しかし日本のテレビや新聞はあんまり愛知方面にインドのよくない情報を流さないようにしていただければ私としては助かります。
ところで、インドでしばらく暮らしているうちに、だんだんインドを対照として見た自分の日本人アイデンティティが徐々に薄れているように思う。以前にも書いたかもしれないが、インドと日本は社会の構造も人間の行き方も仕事のやり方もかなりちがうために、インドにやってきた日本人は必然的に「日本人としての自分」を意識せざるを得なくなる。その結果、日本の文化にやたらこだわりを強めていく日本人もいる。
私も最初は「何でこんなに常識が違うんだ」、とびっくりして、仕事上で葛藤を起こすこともあったし、自分の理屈が通用しなくて困ったこともかなりあったように思う。でもなんだか今はなじんでしまった。正直なところ、今自分には日本的常識があるかどうかがわりと心配である。
日々の生活でも、ささいなことでインドによって照らし出される日本の異質さと、逆に日本によって照らし出されるインドの異質さがひたすら面白かった。もちろん今でも知らないことばかりで、インドの文化や社会そのものに対する興味は底を尽きない。しかし、以前ほど自分の中に「日本とインド」という強烈な対照性が存在しない。その部分へのこだわりが弱くなったような感じである。時々日本に一時帰国すると、昔の感覚が少しだけよみがえるのだが。
そんなふうで、じゃあ自分にとって何が最後まで捨てきれない日本へのこだわりだろうか、と考えたら、これは寿司かな、と思う。やはり人間、最初に来るのも最後に残るのも低次の欲求ということなのか、日本の食べ物への愛とこだわりだけがいつまでも薄れずに残っていく。人によってはラーメンとかお好み焼きらしいが、私にとっては生の乗った寿司である。お祭りのちらしや、コンビニのパック寿司、農協の火曜日の寿司バイキング、それから祖母が市場で買いたてのまぐろを、酢を混ぜたばっかりのまだほんのりあたたかいごはんに乗せてくれたふわふわの家族にぎりの記憶が、ふしぎなぐらい強い記憶になっていくのだ。
心配してくれる人がいるのはありがたいことだと思います。しかし日本のテレビや新聞はあんまり愛知方面にインドのよくない情報を流さないようにしていただければ私としては助かります。
ところで、インドでしばらく暮らしているうちに、だんだんインドを対照として見た自分の日本人アイデンティティが徐々に薄れているように思う。以前にも書いたかもしれないが、インドと日本は社会の構造も人間の行き方も仕事のやり方もかなりちがうために、インドにやってきた日本人は必然的に「日本人としての自分」を意識せざるを得なくなる。その結果、日本の文化にやたらこだわりを強めていく日本人もいる。
私も最初は「何でこんなに常識が違うんだ」、とびっくりして、仕事上で葛藤を起こすこともあったし、自分の理屈が通用しなくて困ったこともかなりあったように思う。でもなんだか今はなじんでしまった。正直なところ、今自分には日本的常識があるかどうかがわりと心配である。
日々の生活でも、ささいなことでインドによって照らし出される日本の異質さと、逆に日本によって照らし出されるインドの異質さがひたすら面白かった。もちろん今でも知らないことばかりで、インドの文化や社会そのものに対する興味は底を尽きない。しかし、以前ほど自分の中に「日本とインド」という強烈な対照性が存在しない。その部分へのこだわりが弱くなったような感じである。時々日本に一時帰国すると、昔の感覚が少しだけよみがえるのだが。
そんなふうで、じゃあ自分にとって何が最後まで捨てきれない日本へのこだわりだろうか、と考えたら、これは寿司かな、と思う。やはり人間、最初に来るのも最後に残るのも低次の欲求ということなのか、日本の食べ物への愛とこだわりだけがいつまでも薄れずに残っていく。人によってはラーメンとかお好み焼きらしいが、私にとっては生の乗った寿司である。お祭りのちらしや、コンビニのパック寿司、農協の火曜日の寿司バイキング、それから祖母が市場で買いたてのまぐろを、酢を混ぜたばっかりのまだほんのりあたたかいごはんに乗せてくれたふわふわの家族にぎりの記憶が、ふしぎなぐらい強い記憶になっていくのだ。
June 20, 2009
インド式とは何か
インドで暮らす外国人の多くが口にする言葉に、「インド式」というのがある。英語ではIndian styleとかIndian wayという。
この言葉は東アジアの文化とも西洋の文化とも違った、いわゆるインド特有のやり方を表現する非常に便利な言葉だ。
A 「おととい、夜にテレビが急に壊れて電気屋に電話したら、夜中の10時だっていうのに今から1時間以内に来てくれるって言うんだ。」
B 「へー、インド式だねえ」 (インド式=柔軟)
A 「それなのに実際には、次の日の夜になっても来なかったんだよ」
B 「うーん、インド式だねえ」 (インド式=有言不実行)
A 「それで電話かけて苦情を言ったら、来ようとしたけど奥さんが熱出して来れなかったって言うんだよ」
B 「うーん、インド式だねえ」 (インド式=家族が第一優先)
A 「結局、昨日の夜とうとう修理に来たんだけど、中の配線がイカレてテレビ自体がだめになってるって言うからあきらめかけてたんだよ。そしたら電気屋がものはためしにテレビの裏をがばっと開けて、持ってたドライバーでいろいろいじってなんだかんだいって直しちゃったんだ。」
B 「うーん、インド式だねえ~」 (インド式=状況対処力が高い)
てな感じで延々とありとあらゆる場面で活用できる、よくできた表現である。
インドで暮らす外国人たちの間には、うまく言葉にできないが、インドに対するある種のコンセンサスのようなものが存在している。電車が時間通りに来ない、タクシードライバーがあきらかにウソの運賃を言う、レストランのメニューに載っているたいていの料理が存在しない、といったことで語られるルーズさ。一方で、何か予期しない問題が起こったときにルール外の方法を駆使して機転を利かせて解決する柔軟さ。そういった、よく理解できない、うまくまとめきれないけれど、これはインドとしか言いようがない現象を総じて、「インド式」、Indian style、Indian wayなどと言うのである。
インドでビジネスに関わっている外国人の中には、この言葉をやや軽蔑的な意味で使う人が結構多い。そういう言い方をしている人の話を聞くと、なんとなくインド人の立場に立ってしまい、ちょっと傷つく。でも、インド人の異質なビジネスのやり方と自分の国の文化との間に挟まれてほとほと参っている外国人ビジネスマンにしてみたら、「インド式だからなあ~」とでも言って、自分の苦労を人と共有しなければやってられないのだろう。その気持ちはよくわかる。うまく理解できないことをわかった気にしてくれる機能や、そのわからないことをわからないなりに人と共有するためのコミュニティ言語的な機能も、この「インド式」という言葉には含まれているのだ。
しかし、実際に外国人が「いわゆるインド式だ」、と感じることの本質はなんなんだろう?とつねづね疑問におもう。インドは、つまり、なにが違うのか。最近、この外国人における「インド式」の使用がどうにも気になって、この言葉がはたして総括してなにを意味しているのかを解明したいと考えている。
インドにお住まいの皆さんで、もしなにか面白い仮説を思いついたらご報告下さい。
この言葉は東アジアの文化とも西洋の文化とも違った、いわゆるインド特有のやり方を表現する非常に便利な言葉だ。
A 「おととい、夜にテレビが急に壊れて電気屋に電話したら、夜中の10時だっていうのに今から1時間以内に来てくれるって言うんだ。」
B 「へー、インド式だねえ」 (インド式=柔軟)
A 「それなのに実際には、次の日の夜になっても来なかったんだよ」
B 「うーん、インド式だねえ」 (インド式=有言不実行)
A 「それで電話かけて苦情を言ったら、来ようとしたけど奥さんが熱出して来れなかったって言うんだよ」
B 「うーん、インド式だねえ」 (インド式=家族が第一優先)
A 「結局、昨日の夜とうとう修理に来たんだけど、中の配線がイカレてテレビ自体がだめになってるって言うからあきらめかけてたんだよ。そしたら電気屋がものはためしにテレビの裏をがばっと開けて、持ってたドライバーでいろいろいじってなんだかんだいって直しちゃったんだ。」
B 「うーん、インド式だねえ~」 (インド式=状況対処力が高い)
てな感じで延々とありとあらゆる場面で活用できる、よくできた表現である。
インドで暮らす外国人たちの間には、うまく言葉にできないが、インドに対するある種のコンセンサスのようなものが存在している。電車が時間通りに来ない、タクシードライバーがあきらかにウソの運賃を言う、レストランのメニューに載っているたいていの料理が存在しない、といったことで語られるルーズさ。一方で、何か予期しない問題が起こったときにルール外の方法を駆使して機転を利かせて解決する柔軟さ。そういった、よく理解できない、うまくまとめきれないけれど、これはインドとしか言いようがない現象を総じて、「インド式」、Indian style、Indian wayなどと言うのである。
インドでビジネスに関わっている外国人の中には、この言葉をやや軽蔑的な意味で使う人が結構多い。そういう言い方をしている人の話を聞くと、なんとなくインド人の立場に立ってしまい、ちょっと傷つく。でも、インド人の異質なビジネスのやり方と自分の国の文化との間に挟まれてほとほと参っている外国人ビジネスマンにしてみたら、「インド式だからなあ~」とでも言って、自分の苦労を人と共有しなければやってられないのだろう。その気持ちはよくわかる。うまく理解できないことをわかった気にしてくれる機能や、そのわからないことをわからないなりに人と共有するためのコミュニティ言語的な機能も、この「インド式」という言葉には含まれているのだ。
しかし、実際に外国人が「いわゆるインド式だ」、と感じることの本質はなんなんだろう?とつねづね疑問におもう。インドは、つまり、なにが違うのか。最近、この外国人における「インド式」の使用がどうにも気になって、この言葉がはたして総括してなにを意味しているのかを解明したいと考えている。
インドにお住まいの皆さんで、もしなにか面白い仮説を思いついたらご報告下さい。
May 30, 2009
「誇り」の価値観
これまでの経験からいうと、インド人のヒンドゥ教徒で自分のカーストを自己紹介で言う人間はブラフマンだけである。人に尋ねにくいデリケートな話なのであまり具体的な情報が入ってこないせいか、2年間ムンバイに住んでいてもいまいち現在のインドのカーストシステムがどうなっているのか私にはいまいち全体像がつかめない。しかし一つだけ言える事実は、自己紹介で自分がブラフマンだと言う人はブラフマンの生まれであることを誇らしげに語るということだ。
こういうとき、「あ、そう。・・・で?」という反応以外にはしようがない。その価値観の完全に外にいる人間からしてみれば、なにがどう誇らしいのか、びっくりすればいいのか感心すればいいのか、まるでわからないのである。こういうことがあると、なんとなく不愉快なような、奇妙な感覚が残っていつまでも気になる。そんなことを誇りにして恥ずかしくないのか、と正直反感をもつこともある。
でも実際には、ブラフマンであるということがその本人にとってどういう意味を持つのかは私には分かりようがないので、つまらない議論をしないで黙っているよう心がけている。そういうファンダメンタルな部分で価値観が違う相手とファンダメンタルな部分で話し合っても、意見が一致したりすることはほとんど永久にないといってよい。
何に誇りを持つべきか、持たざるべきかは、文化や個人の価値観によって違うからなかなか他者と共有できない。しかし、それ以前に、「誇り」みたいな高尚な感情そのものの存在が不気味だし、危うい香りがするから好きになれない。人が自分について何かを誇りに思っている様子をみるとなんとなく惨めに見えるし、自分自身の中に何か誇らしい気持ちわいてくると、頭の端でもう一人の自分が自分の幼稚さを笑っている声が聞こえてくる。
それとは反対の表現に「謙虚」があるが、「謙虚」は「誇り」のコインの裏表である。
以前、インドに住んでいるイギリス人の知人に「インドは英語が通じるから、イギリス人には便利は便利だよねぇ」というようなことを言ったら、「自分はイギリス人だから、世界中のどこに行っても英語でコミュニケーションできる。外国の人たちは一生懸命英語を勉強して、イギリスやアメリカの人間と話そうと努力している。そのせいで自分は怠惰になって、他の国の言葉を学んで現地の人と話すという謙虚さを失ってしまう。だからできる限り英語以外の言葉を学ぼうと努力している」と真剣に返された。こういうのをノーブレス・オブリージュというのか、と思った。素晴らしい態度である。
しかし、英語ネイティヴでない人間が聞くと実際にはあんまりピンと来ない理屈ではある。旅行したり、国際的なビジネスやアカデミックな世界では英語ネイティヴであることがアドバンテージになることは確かにあるのかもしれないけれど、それはそれである。何も勤勉だから英語を勉強しているのではなくて、必要に駆られて勉強しているのである。そこを生きる姿勢の話に読みかえられると、必然的に英語ネイティヴでない人間のほうが社会的な立場上、下であると暗に言っているように聞こえる。そういう感覚は、無意識に上からものをいっている人間には感知できないが、文脈的に下の立場にされた人間にとっては身にしみて感じることである。
他人の価値観はほんとうにわからない。共有しようとしないで、ただ現象として理解するしかしょうがない。他人もまた、私の価値観に対して同じだけ謎に思い、ときには反感を感じているのだろう。
こういうとき、「あ、そう。・・・で?」という反応以外にはしようがない。その価値観の完全に外にいる人間からしてみれば、なにがどう誇らしいのか、びっくりすればいいのか感心すればいいのか、まるでわからないのである。こういうことがあると、なんとなく不愉快なような、奇妙な感覚が残っていつまでも気になる。そんなことを誇りにして恥ずかしくないのか、と正直反感をもつこともある。
でも実際には、ブラフマンであるということがその本人にとってどういう意味を持つのかは私には分かりようがないので、つまらない議論をしないで黙っているよう心がけている。そういうファンダメンタルな部分で価値観が違う相手とファンダメンタルな部分で話し合っても、意見が一致したりすることはほとんど永久にないといってよい。
何に誇りを持つべきか、持たざるべきかは、文化や個人の価値観によって違うからなかなか他者と共有できない。しかし、それ以前に、「誇り」みたいな高尚な感情そのものの存在が不気味だし、危うい香りがするから好きになれない。人が自分について何かを誇りに思っている様子をみるとなんとなく惨めに見えるし、自分自身の中に何か誇らしい気持ちわいてくると、頭の端でもう一人の自分が自分の幼稚さを笑っている声が聞こえてくる。
それとは反対の表現に「謙虚」があるが、「謙虚」は「誇り」のコインの裏表である。
以前、インドに住んでいるイギリス人の知人に「インドは英語が通じるから、イギリス人には便利は便利だよねぇ」というようなことを言ったら、「自分はイギリス人だから、世界中のどこに行っても英語でコミュニケーションできる。外国の人たちは一生懸命英語を勉強して、イギリスやアメリカの人間と話そうと努力している。そのせいで自分は怠惰になって、他の国の言葉を学んで現地の人と話すという謙虚さを失ってしまう。だからできる限り英語以外の言葉を学ぼうと努力している」と真剣に返された。こういうのをノーブレス・オブリージュというのか、と思った。素晴らしい態度である。
しかし、英語ネイティヴでない人間が聞くと実際にはあんまりピンと来ない理屈ではある。旅行したり、国際的なビジネスやアカデミックな世界では英語ネイティヴであることがアドバンテージになることは確かにあるのかもしれないけれど、それはそれである。何も勤勉だから英語を勉強しているのではなくて、必要に駆られて勉強しているのである。そこを生きる姿勢の話に読みかえられると、必然的に英語ネイティヴでない人間のほうが社会的な立場上、下であると暗に言っているように聞こえる。そういう感覚は、無意識に上からものをいっている人間には感知できないが、文脈的に下の立場にされた人間にとっては身にしみて感じることである。
他人の価値観はほんとうにわからない。共有しようとしないで、ただ現象として理解するしかしょうがない。他人もまた、私の価値観に対して同じだけ謎に思い、ときには反感を感じているのだろう。
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