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August 25, 2009

プロとアマの境界線

日本に住んでいたときに一番楽しみにしていた番組に、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」がある。無農薬りんご農園の竹本さんの話なんかは、ビデオにとって何度も繰り返し観た。自分もプロフェッショナルになりたいと思っていたし、今もそう思っている。

今の仕事を始めて最初のころ、自分はマーケティングの素人という意識で働き始めた。2年目を続けるか続けないかを上司と相談していたときに、上司に「この仕事の先には自分のゴールがなさそうだし、今のポジションではずっと素人でしかないかもしれない」と正直に言ったら、彼は「Things change.」、だからそんなに専門にこだわりを持たずに、面白いと思っている間は仕事を続けたらいいじゃないか、と言った。どうしても辞めたくなったらいつでも辞めたらいい、別に引き止めはしない、という話だった。それからの2年目は、素人の域を出て、意識だけでもプロにシフトチェンジしようとわりとがんばってきた。

アマチュアにはアマチュアの利点がある。ユーザーとしての純粋な目で物事を見ることができるし、経験や理論にとらわれずに「好み」でジャッジできる。私の会社はインド企業で日本をマーケットにしたビジネスを行っているので、日本人ユーザーとしての批判的な目を持っているだけでも最初のうちは重宝がられた。そういう素朴な能力が求められていた。しかし今はそうではない。1年目と同じ事を繰り返しやっているわけにはいかない。

自分の考え方も少し変わって、今の分野で将来的に仕事を続けるかどうかは特に問題ではなく、それよりもこの瞬間にプロでありたいと思うようになった。仕事を深くやればやるほど、「わからないこと」に対する焦燥感も生まれてくる。わけがわかっている者になりたいという欲も出てくる。企業の社員としてのプロ、使われる人間としてのプロ、人に仕事を頼む人間としてのプロ、あるいは書き手としてのプロ、などなど、一つの仕事にもさまざまな側面があり、あらゆる面でプロフェッショナルを追求することにはかなりの努力が必要である。

自分が仕事をしているフィールドに対する深い知識もなく、経験も浅い人間が、まがりなりにもプロフェッショナルとしてのアイデンティティを築くためには、ちょっとした裏道がある、と私は思っている。一つはアイディアであり、もう一つは自己批判の能力をつけることである。特に後者が重要で、自らをプロと呼ぶためには、自分で自分の仕事を批判できる目を早く育てることが近道である。つまりは自分を指導できる教師としての目を自分の中に持つのである。

学生がなぜ学生なのかというと、指導者がいないと自分の間違いに気づかないからだ。算数の問題を解くにせよ、卒業論文を書くにせよ、自分の解法や論証の誤りに自分で気づくことができないから、よりメタな物の見方ができる教師が必要なのである。一方で、プロの数学者や研究者は自分の解法や論証を自己批判してひとりでに鍛える能力を訓練されているから、いちいち誰かに指導を仰がなくても自分で研究を進めていけるのである。

仕事も同じである。会社に入ってきた新入社員には仕事のトレーニングをするわけだが、「もう指導は必要ない」とわかる瞬間ははっきりしている。自分のやった仕事のダメさに自分で気づくことができる能力がついたときである。なんでもかんでもやったままに「できました」といって持ってきていた人が、「やってみたんですけど、ここがどうしてもうまくできません」とい言いはじめたら、ほとんど卒業である。あとは本人が勝手に学習していく。自分のやっていることのレベルがわかれば目標や向上心も出てくるし、自分がやった仕事のどの部分はそのまま使えて、どの部分は人に指導を仰いだほうがいいのか自分で判断することができるようになる。

それがプロと素人の分かれ道であり、指導する立場としては一番エキサイティングで、かつ同時に安堵する瞬間でもある。

自分について言えば、正直なところ、自分がやっている仕事の9割近くは自分が正しいトラックを走っているという自信はない。しかし、自分のした仕事が、もし偏差値で例えるならどれぐらいのあたりにいるのかはなんとなく想像がつくようになった。自分が作った広告コピーがいかにつまらないか、自分の水準とするデザインのレベルがどれほど低いかはわかってきている。そこをとっかかりにして、優れたケースを勉強したり、品質の高い作品にたくさん触れたりして、より自分の能力と仕事のレベルの相対的な位置づけを少しずつ明確にしていくしかない。とりあえず、取っ掛かりはあるのだ。

August 20, 2009

英語で文章を書くということ(1) 英語は英語で書く

今うちの会社で夏の英語エッセイ・評論コンテストを主催していますので、興味のある方はぜひ参加してみてください。(お知らせです)

さて、このコンテストのプロモーションのために社員の英語リレーエッセイの企画があり、私も久しぶりにまとまった英語エッセイを書いてみた。500から600ワードの英語エッセイというと、日本語にしたらおよそ私が普段このブログで書いている一記事と同じぐらいの量だ。このぐらいだと、最後の三分の一を書ききるのに少し力がいるけれど、まとまったことを一つ言うのにはちょうどいい。

英語で文章を書くときのポイントは、最初から英語で書くことである。日本語で書いた文章を英語に翻訳するのはあんまりおすすめしない。端々の表現で、「日本語ではこう言いたいんだけれど、英語ではどう表現するのかな」と辞書を引くのはもちろんかまわないけれど、文章全体を日本語で書いてそれを翻訳すると、英文としてはおかしなかんじになる。読者が違うからである。

英語で文章を書くときには、英語がわかる人たちに向かって文章を書く。そうすると、必然的に日本語で文章を書くときとは説明する内容も変わってくる。例えば、日本人に向かって花見についていちいち文章で説明しようとは思わないから、日本語で花見についての文章を書くと、日本人以外の読者に対する配慮が自然と失われてしまう。最初から英語で書いていると、自然と「ここはもっと説明しないと日本人以外にはわかんないよな」という部分を補足できる。

たとえば、日本語の文章なら、単純に「花見」、と書くところを、英語の文章では「hanami, the Japanese traditional custom of enjoying the beauty of cherry blossom」と書くわけである。これは日本語からの直訳ではできない。だからせっかく日本語で完璧な文章を書いたとしても、英語の文章にはかなり修正を加えなければならない。

だから、へたくそでも語彙力不足でもなんでもいいから、英語の文章は最初から英語で書き始めてみるといい。別に時間制限なんか無いんだから、2、3時間集中して書き続ければ一応まとまった量の文章になる。英語を勉強している人は、週末に時間があったらぜひ試していただきたいと思う。

August 18, 2009

イス取りゲームではない

小さい組織で働くことの利点は、いろんな種類の仕事がやれることである。一方で、難点は分業化がすすんでいないために、なんでも一人でやらなければいけないことだ。なんでもかんでも。アイディアを出すのも自分、実行に移すのも自分。やったことない仕事をやることが、むしろ日常業務である(今、私の同僚のみなさんは力強く頷いているかもしれない)。そういういろいろをぎりぎりこなして、自分のポジションを徐々に作り上げていくことが、小企業で働くことの創造的な部分である。

世の中にはさまざまな能力のスタイルがある。高度に専門的な能力や興味を持ち、その一つの「深さ」を追求して生きる人もいれば、ありとあらゆることに興味をもって、自分の能力の「面積」を広げていく人もいる。前者の人が成功するためには、その能力を認めて効果的に使う優れたプロデューサーの存在が不可欠であり、後者の人が何事かを成すためには、優秀な技術者を集めることが不可欠である。また他方で、どちらの能力も対して優れていないという場合には、自分をサポートしてくれる人の存在を増やす知恵が必要である。そういう意味で、自分のタイプを見極めて、必要な環境と人脈を自分に用意できるかどうかが結構大切なのだと思う。

私自身はどうかというと、技術者・専門家タイプの人間になりたいと自分では思いながら、興味や能力を一つのことに統合することができない、という感じでふにゃふにゃとここまでやってきた。物事はあこがれたとおりの形を取らない。まだ若いころは、まだその一つに出会っていないだけだと思っていたが、どうやら自分の能力のあり方は、そういう方向性のものではないらしいと感じ始めている。いろんなことがしたいのである。なんにでも首を突っ込みたいのだ。しかし、そのためにたいていのことは未完成に終わる。こういうのは無節操で無軌道ではあるけれど、いわゆる「成功」のようなものを求めなければ、このスタイルでもあるいは品のいい人生が送れないこともないだろう。

組織・社会におけるサバイバル術は、自分の居場所を自分で作ることに他ならない。私たちは別にイス取りゲームをやっているわけではないので、イスがなかったら地べたに座ればいいのである。あるいはコンビニの車止めの上のほうが快適かもしれない。これは仕事に限ったことだけではなく、例えばグループや学校のクラスで自分の居場所がないと感じている人は、誰かが作った場所や役割の枠組みからいったん外に出て、自分で勝手に座る場所を作ってしまえばよい。そうしてみると、意外と自分と似たような離れた場所に座っている人が結構いることに気づくはずである。

そんなふうに、働くことはそれがどんな仕事やポジションであれ、かなり創造的な活動なのだ。どんなに専門的な職業であろうと、研究者であろうと芸術家であろうと、かならず社会には代わりがいる。どんなに有名なミュージシャンであろうと、死んだあとには誰かがその精神的な穴を埋める。一方で、どんなに単純な仕事であっても、人に負けない能力なんか一つもなくても、ちゃんと働く場所はどこかにあるはずだ。自分が必要とされているかどうかは問題じゃないから、とにかく座れそうなところに座ったらいい。立っていたいというなら、勝手にすればいいのだ。

July 30, 2009

仕事との距離

仕事が楽しくなっている。人に恵まれて、新しいことやいままでやれなかったことに手をつけられるようになったことが一つ、信頼関係がしっかりしてきて、手足の自由が効くようになったことが一つ、いろいろやってきたことの結果が少しずつ返ってきて、先のヴィジョンが少しだけだが見えかけてきたことが一つ。

私はかなり物事にのめりこみやすく、一度のめりこんでしまうと自己と対象との区別が完全につかなくなるたちなので、今の仕事に関しては常に心理的な距離をとるように慎重にやってきた。メンタルが弱いので、何かと同一化して物事がうまく回らなくなったときに、いつかクラッシュするのが恐ろしい。だから神経回路が固まらないように、オフィスを出たら頭を切り替えて、家にいるときには他の好きなことをすると決めている。この一線を維持するのはなかなか難しいのだが、今のところはまあまあうまく言っていると思う。

月並みなことだが、チームにいいスタッフが集まっていることも仕事が楽になった理由の一つだ。できないことは、自分よりできる人に手伝ってもらえばいい。人には得意不得意がある。会社は、人数によって個人の欠落を埋められる場所である。組織によって文化はそれぞれだろうが、私の働いているチームでは、自分が個人としてどれだけ業績を上げたか、ということはほとんど意識に上らない。企画は関わったスタッフのアイディアの複合体であって、成功も失敗も個人に還元されることはないからである。たとえ自分が関わらなくても、だれかが成功させてくれればいい。「自己実現」のような幼稚なゴールは目指されていない。この文化もまた、仕事に適度な距離感を保つことに一役かっている。

以前にも書いたことだが、頭をやわらかくして、自分に飛んでくる球を打って言われたとおり走っていれば、だんだんゲームのルールがわかってくる。自分がどのポジションを得意としているのか、他の人がどんなプレイをするのか、ゲームの状況が立体になって見えてくる。やみくもにやっていたことに、自分なりの理論や意図がついてくるようになる。そうすれば仕事がちょっと面白くなってくるのは仕方がない。

1年単位の契約を更新しまがら、「仕事は面白いか?」と常に自分に訊ねている。1年契約だとつづけるか選択をすぐに迫られるから、常に考えないわけにはいかない。自分がどこに向かっているかはわからないけれど、まあこいつはもうちょっとだけつづけられそうだ、といつもおそるおそる考えてきた。べつにおそるおそる考えることもないのだが、しらふでいるために、「いえいえ、前線には立っていませんよ」、という心理的距離を保っている必要がある。とりあえず、今のご時世に贅沢な話みたいだけれど、まだまだぜんぜん面白い。

July 1, 2009

人生はマッチポンプ

問題が特定できない、という段階が一番困る。「どうもおかしい、うまくいってない」ということだけはよくわかっていても、なにがどうおかしいのかがわからない。この原因探しの前の段階、問題の特定が一番むずかしい。

具体的に言うと、例えば自分の部屋がどうも落ち着かない場合。汚れているわけでもないし、足りないものがあるわけでもないのに、なぜか部屋でゆっくりする気になれない。問題がどこにあるのかわからない。色調なのか、家具のサイズなのか、天井の高さなのか、かけている音楽なのか。

広告の効果がないとき。色なのか、掲載場所なのか、視聴者なのか、メッセージなのか、時期なのか、アイディアそのものなのか。

人間関係がうまくいかないとき。自分が言った言葉ややったことなのか、相手の状況が変わったのか、なにか事件があったのか、ストレスなのか、タイミングなのか、コミュニケーションなのか。

考え抜いて問題が発見できればいいのだけれど、たいていの場合、問題になりうる仮説のリストばかりが大きくなる一方で、どこがおかしいのかはわからずじまいになることが多い。時間切れで、やみくもに何らかのアクションをとらざるを得なくなる。

問題がなんだかわからないと、次にはその存在の定義そのものに疑問をもつようになる。そもそも「落ち着く部屋」とは何か。部屋の機能とはなんなのか。広告とは?人間関係はそもそもつねに良好である必要があるのか?

そんなことをやっているとだんだん疲れてきて、今度はそもそも問題なんて本当に存在するのだろうか、と考えはじめる。今の状態がしかるべき形なのではあるまいか。なにかがおかしいなんて感覚自体が思い込みに過ぎないのではないか。世の中に、「間違った状態」などというものが存在するのか。・・・と思い始めると、だんだんどうにでもなれという気になってきて、ちょっと一晩寝て明日考えよう、という感じになる。

たいていの場合、問題は「決める」しかない。解決策も同じである。「決める」ということは、一番自分が解決したい問題を選んで、一番自分がやってみたい、好きな解決策を選ぶということだ。世界のどこかに自分の知らない真実が存在しているわけではない。作るしかないのである。結局のところ、延々とマッチポンプをやっているだけなのである。むなしいような、楽しいような。

May 16, 2009

新しさの2つの形

仕事で毎日ネタ不足に悩んでいる。思いつきは山のようにリストアップされていくのだが、実際何がいいネタでなにがたんなるくだらないネタなのかを始める前から判断するのが難しい。だからほとんどの場合、うまくいったときの絵が浮かぶかどうかと、思いついたときのアドレナリンの分泌量で決めるしかない。

問題は、「このネタははたして本当に新しいのか」ということである。新しさには基本的に2種類ある。

1. 既存の問題(テーマ)に対するアプローチ方法が新しい
2. 提示した問題(テーマ)そのものが新しい

1のほうは、すでに世の中に存在する、だれもが謎に思っているような問いに新しい角度から答えるやりかたである。ラーメン屋で例えると、「このスープをどうしたらもっとおいしくできるのか?」というファンダメンタルな問題に対して「とんこつと鶏がらを一緒に煮たらどうか」、「昆布を入れたらどうか」、といった新しい解決策をみつける。成功すれば、結果として『もっとおいしいスープ』という、誰もが求めているものが出来上がるので、たくさんの人に愛好してもらえる。

2のほうは、こっちもラーメン屋でいうと新しいラーメン料理を考えるということになる。たとえば、チャーシューを細―く切って麺の代わりにした『これがホントのチャーシュー麺(肉が大好きな人用)』とか、ラーメンを肉まんの中に詰めた『ラーメンまん(戦いません)』とか、そういうやつを開発するわけである。こっちの場合、よほどそのアイディアが「ああ、それだよ、それだったんだよ」という人々の共感を得られない限りヒットしない。そうすると、単なるくずアイディアということになってリスクが高い。

というわけで、仕事では1の新しさを追求することのほうが圧倒的に多い。「こんなの見たことなかった」というホントの新しさで勝負するのは危険だし、難しい。誰かがすでにやっていることの、そのちょっと上を行きたい、そしたら少なくともマーケットがすでに存在しているし、成功すればちゃんと売れることが分かっているからである。ただし、自分のほうがうまくやれるかどうかの保証はない。トライしても、たいていの場合特に新しくもなんともないものができてそれで終わりである。

そういう仕事ばかりしているとだんだん自分が後追いをしているだけだという事実にうんざりしてしまうこともある。とことんくだらなくてもいいから、まったく誰も考え付いたことのないところで新しいとんでもないことをやれたらいいのにという気持ちになることもある。

これは仕事に限ったことではなく、いろんな状況にあてはまる。例えば学術研究で言ったら、1.先行研究が大量にあるテーマ、2.先行研究が一つもないテーマ、である。1の場合はみんながやってるから世の中に価値は認められやすいけれど、自分が他に秀でる見込みが少ない。2の場合はうまくすれば先駆的な研究になるけれど、誰の興味も引かない可能性が大である。

人生にどちらを追求するかは、性格とか好みとかで分かれるのだろうが、自分がどちらに向いているのかはわからない。いずれにしろ、もっと面白い仕事をしたい、というところに尽きるのだが。

April 4, 2009

変えるのは小さいこと

毎日やるはずのデータ分析をさぼっていることを上司に指摘された。私はいまいち数字が苦手なので、ついつい後回しにしてしまうのである。「何でやらないの?」というので、「うーん、ついつい忘れちゃって」と答えると、「じゃあブラウザのリンク機能を使いなさい」とアドバイスされた。

IEのブラウザについている「お気に入り」の「Links」フォルダにウェブページを登録すると、ブラウザを開けたときに重要なサイトのボタンがメニューに表示されるようになる。「これから、ブラウザを明けた瞬間に分析に使うサイトや重要なページを全部開いて、仕事中ずっと開けっ放しにしておくようにしなさい」という。

はいはい、とそのときは生返事をしていたのだけれど、一応言われたとおりにブラウザをカスタマイズしてリンクボタンを付けてみた。すると驚くべきことに、この数日で仕事のやりかたが見違えるほど変わった。

いままでは「さて、分析するか」と決心してからページを開いていたのだが、今は目の前のリンクボタンをポチッと押すだけだから、精神的なハードルが下がって、思いついたら一日に何回もページを開く。目の前にボタンがあるから、なんとなく手持ち無沙汰になるとボタンを押していることもある。そのおかげでデータを見ながら新しいアイディアを練るようになった。

変えるのは小さいこと、と悟った。それからは、小さきを変えてブレイクスルーを起こすネタを探すようにしている。

煮詰まっているときや追い込まれて抜け道が見つからないときには、何かドラスティックな変化を起こして状況をひっくり返したいという欲求が起こる。人は大きなものにまず目がいくから、「何が悪いんだろう」と考えたときに、もっと瑣末で重要なことには気づかずに、目に付きやすいことを変えようとする。

ホントは右にあるバナーを左に置くだけですむかもしれない。カーテンの色を変えるだけでよかったかもしれない。夜の紅茶を水に変えるだけで効いたかもしれない。でもそれに気づく前にウェブサイトのデザインをそっくり変えてイメージを一新しようとしたり、引越ししてみたり、安眠枕を買ってみたりしてしまう。

でも本当は、「新しいアイディア」は大きくなくていいのである。むしろ小さければ小さいほどすぐに変えられるから、結果もすぐに現れる。そして、努力と費用の大きさとその効果は必ずしも比例しない。知恵がものをいうのである。

March 26, 2009

アイディアは釣りあげる

今朝起きて机の上を見たら、自分の手帳が開いていて、一番最初のページのそのまた前の厚紙の見開きいっぱいに巨大なよれよれの字で「アイディアを見つけることは、釣りのようなものだ」と書いてあった。

私は記憶力が悪いので何か思いついたらメモをする習慣があるのだが、ベッドのそばに電気のスイッチがないので、寝ている間になにかひらめいたときに時々暗闇でメモを取る。そして朝起きると枕元にまったく読めない意味不明なメッセージが残っているということがしばしばある。そういえば昨夜は汚い字でも朝読めるようにできるだけでかい字でページいっぱいに書いたんだった。それにしても、お気に入りの手帳の台紙の部分にこのボールペン書きの汚い字がこのまま1年間残ってしまうのかと思うとかなりショックである。

それは一時忘れるとして、アイディアと釣りの話である。今3月で締めの月ということもあり、仕事で4月からの1年に向けて仕事の計画を立てているのだが、そのおかげで毎日アイディア不足に悩んでいる。ネタは一体どこからどうやって見つけてくるのか?と疲れてぼんやりした頭で考えていて、夜中にもういいやと思って眠りかけた瞬間に、あ、これはなんだか釣りに似ているなと思った。

色の濃い濁った川に釣り糸をたらしているような感じである。糸の先が見えない。でも魚がいるに違いないと信じて根気よく竿を抱えているしかない。もういないと思ったら道具をしまって家に帰るだけだけれど、そしたら食べるものがない。来そうな気がする。なんとなくポイントがあっているような気配がする。下で動いている魚の動きが糸に伝わった・・・ような気がする。こういう期待を心に秘めて、じっくりひとりぼっちで腰を下ろしている感じがする。

これは人とネタ出しをやってもおなじである。みんなで釣りに来ているような感じになる。チーム・ミーティングをしていると、問題だけがどんどんリストアップされていく。「さて、これをどう解決しよう」という段階になると、みんな黙って自分の信じる各ポイントに分かれて、さあ釣るか、という雰囲気になる。こういうときは、自分だけが釣れなくてもだれかが釣ってくれればいい。だれかが何かちっちゃなフナでも釣ってくれたら、そこにポイントを移動するか、それをどうやって料理するかを考えればいいからだ。

以前に別のブログで書いたことだけれど、「ネタはいっぱいある」とただ盲目に信じることが、アイディアをひねり出す一番重要なポイントであると私は思う。釣れないと思って釣りに行く人はいない。みんな釣るために釣りにいく。これが信じられない人は詰まる。川には魚がうじゃうじゃいる。ただ今はエサに引っかからないだけのことである。つれたらどんな魚もうまい。どんなネタも面白いのだ。待っていれば釣れる。あきらめたらもう釣れない。それだけの違いである。と思って、気を取り直してまた考える。

それでどうなったかというと、いろいろな問題は解決策が見つからないまま滞っているけれど、こういうたとえ話は、投げちゃわないためにちょっと役に立つんじゃないかと思っている。

March 13, 2009

恐怖の問いかけ

マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で、アメリカのメディアがいかに人間の恐怖をあおって市民を購買に駆り立てているかを描写していた。その傾向は日本のメディアでもかなり強い。

「あなたの肌年齢はいくつですか?」とか、「あなたの彼女はホントにそれで満足していますか?」とか、「女子社員があなたの匂いに顔を背けていませんか?」とか、「この体じゃ水着が着れない!」、「あなたの睡眠の質は何点?」、「正しい枕、使ってますか?」、「え、私の収入、平均以下?」、などなど。この手のメッセージは、例え日本から遠く離れたインドにいて耳をふさいでいても入ってくる。ジャンクメールや、Mixi広告、サーチエンジンの検索結果ページ、Yahooニュースなど、ほとんどがインターネットを介してやってくる。

私はオンラインの教育関連事業のマーケティングの仕事をしていて、広告やPRに携わることもある。そのため、自分はこの手の、人の恐怖を煽り立てる問いかけを世の中に流布する立場にはなるまいと努力している。しかし効果が高いことはよく知っているから、「あちら側」に下る誘惑は常にある。「あれ、自分はどうかな?」と思わせるような意表をつくメッセージを狙ったりすると、けっこうぎりぎりのものができあがることもある。だから、不安や恐怖ではなく、もっとなにか自然でよきものを駆り立てられないかとよく考えている。

不安や恐怖に駆り立てられて取る行動は長く続かない。なぜなら、不安や恐怖はモチベーションとは別のものだからである。つらいダイエットが続かないのと同じように、「やりたいな~」というポジティヴな志向がそこになければ、ながく愛着を持ってことをおこなうことは難しい。逆に、もしそこになにか自発的で求心的なものが存在すれば、行動の結果を滋養にして、自家発電しながら続けていくことができる。

そういう意味では、ダイエット・グッズの販売なんかは一度買ったら終わりだから、肥満の恐怖を駆り立てて新規の客をどんどん増やすことが目標なのだろう。なにも購買者が1年以上そのグッズを毎日使い続けることを望んでいるわけではない。むしろそれは押入れにしまってもらって、また新しいグッズを買ってもらうほうが助かるわけである。

それとは逆に、教育産業では、利用者がどれだけ長くサービスに愛着を持ってくれるかが問われてくる。勉強は、基本的にしちめんどくさいものである。そこを、利用者個人の中に「もっと学びたい」というモチベーションを発見して、サービスを通じてさらにそれを消えないように育てるわけだ。クライアントはみんな個性的過ぎて標準化できない。「いろいろな人がいて、いろいろなニーズがある」というところを越えて、「一般的な人」に受け入れられる何か標準的なものを打ち出すということができない。だから、マスを対象にそのマーケティングを行うのはあんまり簡単なことではない、と常々感じている。

恐怖のメッセージを受け取る視聴者側として一つ心得ておくといいのは、「その問いは “自分にとって” 価値があるか」と一度考えてみることだ。「あなたの睡眠の質は何点?」と問いかけられて、すかさず「うーん、そういえば何点だろうな・・・」と考えたり、反省してしまってはいけない。その前に、「は?睡眠の質とかって、それ、何?意味あるの?っていうか、ばかじゃないの」という態度で、一度人から投げられた問いの価値自体を問うてみたほうがいい。なげかけられる情報やメッセージが、何もかも自分に関係すると思ってはいけない。

これは山田ズーニーさんがコンテンツ「大人の小論文教室」の中で書いていたことから学んだ。山田さんはインタビューでいろいろな質問をされたあと、できた原稿を見てこれは自分ではない、と感じ、なぜそんなことが起きたか考えたという。結果、他人から投げられた、「自分の中に存在しない問い」に無理やり答えることで、自分の表現したいものとは違うものが現れてしまった、みたいなことを振り返っていた。睡眠の質テストのスコアが100点中30点だったからって、ヘンな枕を買ってはいけない。売る側のつまらない標準化に乗せられてはいけない。自分の頭で、自分だけの問いを立てないといけない。

January 21, 2009

頭が混乱したときは

デスクは、頭の中身の比喩だ。私の会社のデスクの上はいまめちゃくちゃである。

3週間分ぐらいたまったタスクリストの紙、読まなければと思って積み上げてある本や雑誌、壁一面に張り付けたアイディアメモや忘れないことメモ(すでに多すぎでどれが大事なのかさっぱりわからなくなっている)、書きかけの原稿やマインドマップと、もってきては片付け忘れるおやつのお皿。

パソコンのデスクトップもこれにそっくりである。書きかけの企画書やメール、作りかけのファイル、すぐ使おうと思ってショートカットを作っておいた画像やサウンドファイル。やらなければならない仕事に時間と体が追いつかず、整理する暇もないままにエントロピーがどんどん増大していく。

私は自分が企画した仕事と人から回ってくる仕事に精神的な区別をしていない。人からもらった企画でも、好きに料理してくれと言われたらけっこう燃えちゃうタイプである。仕事を断るのが惜しい。それでハイハイ言っているうちに、気づくと明らかに不可能な量の仕事が目の前に積まれている。

1月に、仕事で親しくしている人たちが何人か会社を離れることになった。契約が切れて次の場所に向かう人、結婚して引っ越す人、いろいろである。周りの人が、身内の不幸や病気などといったさまざまな問題に直面している話を聞く。自分もまた、いろいろな種類の決断を日々迫られている。この激しい空気の動きの中にいるだけでけっこう消耗してくる。そんなかんじで、やることは多いし変化は激しいしでかなり忙しい。

そういう時は、周りの人をただ見ている。

オフィスは不思議な空間である。一人ひとりの人がなにがしかの問題を抱えていて、何かに迷っていたり、悲しかったり、逆に笑い出しそうなぐらい幸せだったり、それでも朝ちゃんとした顔をしてやってくる。パントリーで友達と冗談を言い合い、ミーティングでまともな意見を言い、働いているとおなかがすくからランチを食べて、きちんとした顔をしたままうちに帰っていく。暗く沈んで泣いている人も、腹を立てて愚痴を言い散らかしている人も、幸せすぎてはしゃぎまわっている人もいない。

そんなふうに想像していると、頭の中がどんなにはちゃめちゃでも、自分も一応しゃんとしていようという気持ちになってくる。みんな、しっかりしている。

January 15, 2009

自由な、仕事の選び方

先日、日本の大学生の人と飲む機会があった。話を聞いていたら、大学生時代の友達が就職活動中に「自分が人生で何をやりたいのかを定義しようとして悩んでいたら、自分がなぜ生きているのか、という哲学的な自己の存在意義まで問いはじめてしまった」と語っていたのを思い出した。

今はどういう雰囲気なのかわからないが、私が育ったころの学校には、「夢を職業にすることが人生の大きな意義である」というなかなか強固なイデオロギーがあった。小学校のときに何度夢の職業を書かされたかわからないし、中学校では元服の歳に生徒全員が将来の夢を墨と筆で書いて体育館に掲示した。

一般的にいえばその結果として、高校、大学時代に本格的な就職難の時代に突入したころ、その夢と現実との落差を埋めるのに苦労した世代である。今は、あの雰囲気が多少は薄れて、学校でももっと実践的な職業、進学指導をしているのではないかと思うが、実際どうなのかは知らない。

私の働いている会社には、英文校正を仕事にする若いエディターたちがたくさんいる。たとえば、大学で医学を学んだ人が、医学論文の英文校正をする。人類学を学んだ人が、人文系の研究論文の校正を仕事にする。そして、彼らは一生エディターでいるわけではない。医学論文のエディターがMBAを取りに大学に戻って次はマーケッターや企業家を目ざしたりする。英語のインストラクターをしていた人が、退職してブティックを開いたりする。

こういうフレキシブルな仕事の選び方は、人生やものごとに一貫性を求める日本の雰囲気からは異質に見える。ふつう、医学を学んだ人が医者にならずに校正者になったら、日本では一種のドロップアウトに聞こえるだろう。しかしここにはそういう価値観があまりないように感じる。

アイデンティティが職業選択とさほど深く結びついていない。私は「アイデンティティ」という概念そのものが今の時代にはあまりそぐわない古いものだと思っているのだが、それでも実際この職業的価値観の多様さを目の当たりにすると驚く。この驚きが自分だけのものなのか、自分の世代に共通したものなのかはわからないのだが。

私の場合も、自己のアイデンティティの確立とやらをやるだけ時間の無駄と決めて、ある意味職業に対して受身になってみたあとから、むしろ自分が自然と浮き彫りになってきたような気配がある。糸井重里さんはどこかのコンテンツで「自分が何をやりたいかではなく、来た球をどう打つかを考えて生きてきた」というようなことを言っていた。飛んできた球をどう打つか、そのバットの振りに結果として自分が表れてしまうのだ。

しかし本当に重要なのは、そこに映る自分とやらを見ないことである。そんなことよりも、打った球がどこに行くかを興奮して眺めているとき、その人は青年期の自意識を越えていける。そんなふうに、自分をどんどん失っていけたらいいと思う。

November 1, 2008

企業就職の中の自由

オンラインビジネスの仕事をしているおかげで、さまざまな会社から「おたくのウェブサイトへのアクセス数をアップします」という営業電話がかかってくる。見積書にはたいてい、「クリック数に対する成果報酬制」か「月極定額制」の2種類のオプションがある。彼らにとっては仕事の内容は同じなのだが、クライアントが好きな支払い方法を選べるようになっているのだ。

私は公務員家庭に育ったせいか、商売をして暮らすという生活感覚がないまま大人になり、大学を出たとき、教員になるか研究職につくかという2通りの選択肢以外思いつかなかった。自分が一般企業の組織のしばりの中でやっていけるとはとても思えなかったし、かといってフリーランスで生きる才能も才覚もないし、という具合である。

さっきのアクセス数アップサービスに例えてみれば、3者の雇用形態は、

公務員 = 月極定額制
会社員 = 月極定額制×成果報酬
フリーランサー = 成果報酬

という感じだろうか。しかし、インドの企業で社員としてフルタイムで働いてみて、会社に勤めるのも思ったほど悪くないんだな、と少しずつ思うようになった。結局、会社員か、公務員か、フリーランスかという雇用形態は仕事の自由度の上で、さしたる問題ではないことがわかってきたのである。

ひとつには、基本的に会社では周りが適性を見て、自分の得意な仕事を積極的に回してくれる傾向がある。私は会社のブランディングとマーケティングを兼ねたポジションで働いているのだが、ブランディングのほうが面白いくてつい時間をかけているせいで、マーケティング関係の仕事の能力がさっぱりつかない。そうすると「君はこっちの仕事は駄目みたいだから、誰か他のやつに手伝ってもらおう」ということになって、その分自然にやりやすくて面白い仕事の比率が増えたりする。

もうひとつ、企業に勤めることの利点は、企画の実現が早いことである。企業には人材がある。たとえば「こんな新しい英語の教材を思いついた!」と企画を持ち上げたとき、それを実現する英語講師、ライター、デザイナー、営業担当なんかが一式そろっている。そんなの優秀な人にアウトソースすればいいじゃないかというかもしれないが、案外「外部の優秀な人」を使うよりも「内部にいる息の合った人」を使ったほうがいい仕事ができることがある。

企業就職がいい、と言っているわけではなく、単にどれだっていいのだ。どの雇用形態を選ぶかは、仕事の内容の自由度の問題ではなく、自分のお金と時間をどうやって管理するのが自分にとって心地よいのか、その部分の問題ではなかろうか。時間の自由度にしたって、9時5時生活は駄目です、というに人はフレックスタイムで働くという選択肢がある。フリーランスみたいに時間が自由すぎるとモチベーションが維持できないという人は、事務所を持てばいい。そういうことは、ホントに重要な問題ではない。