September 17, 2009

インド話は尽きない

最近、以前のルームメイトであるたまこが人類学の調査でVashiの街に滞在している。久しぶりに会って話していてまた改めて、インドに住んでいると、インドについて語るべきことは永遠に出てきてぜんぜん果てがないと感じている。たぶんすんなり理解できない文化がたくさんありすぎるからだろう。

どんなにこちらでの生活に慣れても、ムンバイの生活にはなんだかよく事情がわからないことばかりである。言葉が不自由なので、文脈からその場の状況を推測する特殊な能力がかなりついてきたけれど、やはり社会の不文律や言葉にされない社会的事情の細部がよくわからない。日本では起こらないようなことが日常茶飯事のほうに起こるし、その解決のプロセスもあまりにもちがう。気になることがありすぎて、誰と話し始めてもインド談義は延々と終わることがない。

面白いことに、これは外国人だけの傾向ではない。インド人もまた、インドについて語りだすと果てなく話し続ける。自分の家庭の伝統や風習について語り、その風習が同一宗教内の他のミュニティとどんなふうに違うかについて語り、インドのスピリチュアリティについて語り、ビジネスについて語り、政治について語り、家庭で話されている複数の言語と先祖の起源について語る。彼らもまた、自分たちの細分化された文化の多様性に興味津々であり、語ることで日々自己発見をしているようにうかがえる。

意外というべきか、当然というべきか、ヒンドゥ教徒のインド人は隣人であるイスラム、シーク、キリスト教の文化についてほとんどといって語らない。他の宗教に属するインド人も同様である。例え隣どうしに住んでいても、彼らはお互いに文化を共有しておらず、あまり自分以外の宗教についてよく知らないし、強い関心もないようである。少なくとも私は周りの人からそんな印象をうける。さまざまな種類の宗教や文化が並列して存在しながら、混ざり合っていない。インドの文化は水質性ではなく、固体性なのである。一緒にまぜても、コーヒーと牛乳のようにカフェオレ色にならない。赤い小豆と白い大豆を混ぜたみたいに、個々の色と形状はそのままに残っている。

「わかった」と言えるときが、誰にとってもおそらくずっと来ないのがインドであろうと思う。永久に話し続けられるし、永久に書き続けられる。人はその文化を混沌と形容する。私はいつも生活の視点からしかインドを見ていないが、どんな角度からでも、高みからでも底辺からでも、切り口は無限にあって、ほんとうに果てしない。インド人でも外国人でも、人がそれぞれの立場から語るインドには、新しい定義と魅力がある。

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