この前、開高健の文体が好きだ、というポストの中で、小説のストーリーなんか実はどうでもいい、言葉が心地よければそれでいい、という話を書いたけれど、意見がちょっと変わったので反対のことを書きます。やっぱり物語はスゴイ。
週末かけて、カズオ・イシグロの “NEVER LET ME GO” (邦題:「私を離さないで」)を読んだ。何年か前に一度日本語の翻訳版を読んで衝撃を受けたので、ちょっとショックが和らいで細部を忘れたころにもう一度読み返そうと思っていたのだ。
読んだことのない人のために説明すると、小説は主人公キャシーの静かな一人称で語られる。男女共学のボーディングスクール、「ハールシャム」ですごした子ども時代、その学校の奇妙な雰囲気とルール、学校を出た後の「コテージ」での青春。親友であるルースとトミーとの微妙な関係。キャシーが一見誰にでも覚えのある子ども時代の記憶にまぜて語る数々の謎の後ろには、実は恐ろしい事実が見え隠れしている。「ハールシャム」とは何なのか、子供たちが成長してから始める「donation」とは・・・。ふっふっふ。というストーリーです。
一人称の語りでは、読者はキャシーの視点からしか世界を見ることができない。私たちが普段生きているときと同じ状態だ。人間は自分が認識できるものだけを頼りに、脳の中で世界を構成している。他人にどんな世界が見えているのかは決してわからない。だから、彼女の知らないことは読者にも分からない。キャシーが誤解していることは、誤解したままの事実として読者に知らされる。それにもかかわらず、キャシーの目を通してみる他の登場人物たちの行動や言葉を通して、彼女には見えていない世界が確かにそこにあるということを、読者はずっと感じつづけている。
それが、カズオ・イシグロの作品の、ふつうの一人称スタイルの小説とは違うところである。作者と主人公のアイデンティティは完全に分離している。作者は主人公の口を借りて自分の言葉を語っているのではない。作者の意図は主人公の思いとは別のところにある。その歪みから物語の別の真実を読者に垣間見せようとしているのである。私が読んだカズオ・イシグロのほかの作品、「日の名残り」と「浮世の画家」もまた似たような構造の一人称小説だったと思う。
この一人称の構造も含め、ストーリーは読者が真実に近づくための伏線であふれている。「なにかがある」という思いが本の最後のページまで読者をすごい勢いで連れて行く。どうやったら一人称であれだけ冷静に、主人公とのコミットメントを持たずに他人の心を描けるのか、本当に不思議だと思う。
怖い。どういうわけか英語の原作のほうがずっと怖かった。原作と翻訳を両方読んだほかの人はどう感じたのか聞いてみたいのだが、翻訳を読んだときにはこの背筋が冷えるような恐怖は感じなかった。昨日の夜中に読み終わって、頭に残っているイメージが気になってうまく眠れなかった。怖い夢を見てしまった。大学の倫理学の授業で教材として使うのもいいと思う。ひょっとして、もう使っている学校あるのかな?
March 30, 2009
March 27, 2009
アルコールの限界値
最近お酒がめっきり飲めなくなった。どうもアルコールに体がアレルギー反応を起こしているらしく、お酒を飲むとしばらくして鼻水が止まらなくなり、ときどきのども痛い。ビールにもワインにも同じような症状が出るところを見ると麦アレルギーとかぶどうアレルギーとかそういう食品アレルギーとも違うみたいである。
アルコール摂取量が一生分の容量を超えたということだろうか。
というのは、大学時代の友人がよく、「うちの父親は海老が大好きで、子どものころから毎日海老ばっかり食べ続けていたら、あるとき急に海老にアレルギーが出るようになりまったく食べられなくなってしまった」と話していたからだ。「人には人生でここまでという摂取量が決まっているのだ」と彼女は主張していた。だとしたら怖い。私は酒以外にもフライドポテトが大好きなのだが、ジャガイモが食べられなくなる日が来るのだろうか。
しかし、だったらご飯はどうなのだろう。日本人は毎日食べているじゃないか。パンはどうなのか。味噌汁や豆腐や納豆をあれだけ頻繁に食べていて大豆アレルギーが発症することはないのか。そう考えるとややこの説はあやしいのだが、海老とか酒とか刺激の強いものや特殊な成分が入っているものにだけ適用できる理論なのかもしれない。
とにかく、鼻水はうっとうしいのでややお酒を控えている日々である。私はわりとよく飲むほうだが、かといって今この世から酒がなくなってもたぶん平気だとおもう。若いころはそうではなかった。自我の防衛が強すぎたのか、アルコールを飲まないと自分が何を考えているのかすらわからず、人にも自分の気持ちが言えないというような時期があった。そのおかげで毎日酒を飲んでいた。
考えてみると私の家族にも似たようなところがある。しらふのときは静かであまり話さないのだが、酔っ払うと普段思っていることをいろいろ言葉にできる。だから人に会う前に酒を飲んで出掛けたりする。私はそれをやりだしたら底がないことを観察学習からわかっているので、落ち込んでいるときと緊張しているときには飲まない、というルールを決めて、これだけは守っていた。幸せなときにだけ飲むのが一番である。
一時期、2年ほど完全に禁酒したことがある。酒の席に出ても「やめましたから」といってまったく手をつけなかった。そのころは何か自分を戒めたかったようで、周りには無理をしているのがわかっていたらしい。それからしばらくしてあっけなく酒を飲みはじめたとき、叔母が「よしよし、それがいいそれがいい」といって、ほっとしたように嬉しそうに私を眺めていたのが印象に残っている。
インドに来てからというもの、気楽な生活で、いつも酔っ払ったように浮遊したように暮らしているからだろうか、前ほど酒を飲まなくなっていった。今は食事にあわせて飲みたいだけである。といっても週に一度は鼻水を我慢しながら飲んでいるのだが。しかしこういうのはある意味、進歩なり成長といえるだろう。
アルコール摂取量が一生分の容量を超えたということだろうか。
というのは、大学時代の友人がよく、「うちの父親は海老が大好きで、子どものころから毎日海老ばっかり食べ続けていたら、あるとき急に海老にアレルギーが出るようになりまったく食べられなくなってしまった」と話していたからだ。「人には人生でここまでという摂取量が決まっているのだ」と彼女は主張していた。だとしたら怖い。私は酒以外にもフライドポテトが大好きなのだが、ジャガイモが食べられなくなる日が来るのだろうか。
しかし、だったらご飯はどうなのだろう。日本人は毎日食べているじゃないか。パンはどうなのか。味噌汁や豆腐や納豆をあれだけ頻繁に食べていて大豆アレルギーが発症することはないのか。そう考えるとややこの説はあやしいのだが、海老とか酒とか刺激の強いものや特殊な成分が入っているものにだけ適用できる理論なのかもしれない。
とにかく、鼻水はうっとうしいのでややお酒を控えている日々である。私はわりとよく飲むほうだが、かといって今この世から酒がなくなってもたぶん平気だとおもう。若いころはそうではなかった。自我の防衛が強すぎたのか、アルコールを飲まないと自分が何を考えているのかすらわからず、人にも自分の気持ちが言えないというような時期があった。そのおかげで毎日酒を飲んでいた。
考えてみると私の家族にも似たようなところがある。しらふのときは静かであまり話さないのだが、酔っ払うと普段思っていることをいろいろ言葉にできる。だから人に会う前に酒を飲んで出掛けたりする。私はそれをやりだしたら底がないことを観察学習からわかっているので、落ち込んでいるときと緊張しているときには飲まない、というルールを決めて、これだけは守っていた。幸せなときにだけ飲むのが一番である。
一時期、2年ほど完全に禁酒したことがある。酒の席に出ても「やめましたから」といってまったく手をつけなかった。そのころは何か自分を戒めたかったようで、周りには無理をしているのがわかっていたらしい。それからしばらくしてあっけなく酒を飲みはじめたとき、叔母が「よしよし、それがいいそれがいい」といって、ほっとしたように嬉しそうに私を眺めていたのが印象に残っている。
インドに来てからというもの、気楽な生活で、いつも酔っ払ったように浮遊したように暮らしているからだろうか、前ほど酒を飲まなくなっていった。今は食事にあわせて飲みたいだけである。といっても週に一度は鼻水を我慢しながら飲んでいるのだが。しかしこういうのはある意味、進歩なり成長といえるだろう。
March 26, 2009
アイディアは釣りあげる
今朝起きて机の上を見たら、自分の手帳が開いていて、一番最初のページのそのまた前の厚紙の見開きいっぱいに巨大なよれよれの字で「アイディアを見つけることは、釣りのようなものだ」と書いてあった。
私は記憶力が悪いので何か思いついたらメモをする習慣があるのだが、ベッドのそばに電気のスイッチがないので、寝ている間になにかひらめいたときに時々暗闇でメモを取る。そして朝起きると枕元にまったく読めない意味不明なメッセージが残っているということがしばしばある。そういえば昨夜は汚い字でも朝読めるようにできるだけでかい字でページいっぱいに書いたんだった。それにしても、お気に入りの手帳の台紙の部分にこのボールペン書きの汚い字がこのまま1年間残ってしまうのかと思うとかなりショックである。
それは一時忘れるとして、アイディアと釣りの話である。今3月で締めの月ということもあり、仕事で4月からの1年に向けて仕事の計画を立てているのだが、そのおかげで毎日アイディア不足に悩んでいる。ネタは一体どこからどうやって見つけてくるのか?と疲れてぼんやりした頭で考えていて、夜中にもういいやと思って眠りかけた瞬間に、あ、これはなんだか釣りに似ているなと思った。
色の濃い濁った川に釣り糸をたらしているような感じである。糸の先が見えない。でも魚がいるに違いないと信じて根気よく竿を抱えているしかない。もういないと思ったら道具をしまって家に帰るだけだけれど、そしたら食べるものがない。来そうな気がする。なんとなくポイントがあっているような気配がする。下で動いている魚の動きが糸に伝わった・・・ような気がする。こういう期待を心に秘めて、じっくりひとりぼっちで腰を下ろしている感じがする。
これは人とネタ出しをやってもおなじである。みんなで釣りに来ているような感じになる。チーム・ミーティングをしていると、問題だけがどんどんリストアップされていく。「さて、これをどう解決しよう」という段階になると、みんな黙って自分の信じる各ポイントに分かれて、さあ釣るか、という雰囲気になる。こういうときは、自分だけが釣れなくてもだれかが釣ってくれればいい。だれかが何かちっちゃなフナでも釣ってくれたら、そこにポイントを移動するか、それをどうやって料理するかを考えればいいからだ。
以前に別のブログで書いたことだけれど、「ネタはいっぱいある」とただ盲目に信じることが、アイディアをひねり出す一番重要なポイントであると私は思う。釣れないと思って釣りに行く人はいない。みんな釣るために釣りにいく。これが信じられない人は詰まる。川には魚がうじゃうじゃいる。ただ今はエサに引っかからないだけのことである。つれたらどんな魚もうまい。どんなネタも面白いのだ。待っていれば釣れる。あきらめたらもう釣れない。それだけの違いである。と思って、気を取り直してまた考える。
それでどうなったかというと、いろいろな問題は解決策が見つからないまま滞っているけれど、こういうたとえ話は、投げちゃわないためにちょっと役に立つんじゃないかと思っている。
私は記憶力が悪いので何か思いついたらメモをする習慣があるのだが、ベッドのそばに電気のスイッチがないので、寝ている間になにかひらめいたときに時々暗闇でメモを取る。そして朝起きると枕元にまったく読めない意味不明なメッセージが残っているということがしばしばある。そういえば昨夜は汚い字でも朝読めるようにできるだけでかい字でページいっぱいに書いたんだった。それにしても、お気に入りの手帳の台紙の部分にこのボールペン書きの汚い字がこのまま1年間残ってしまうのかと思うとかなりショックである。
それは一時忘れるとして、アイディアと釣りの話である。今3月で締めの月ということもあり、仕事で4月からの1年に向けて仕事の計画を立てているのだが、そのおかげで毎日アイディア不足に悩んでいる。ネタは一体どこからどうやって見つけてくるのか?と疲れてぼんやりした頭で考えていて、夜中にもういいやと思って眠りかけた瞬間に、あ、これはなんだか釣りに似ているなと思った。
色の濃い濁った川に釣り糸をたらしているような感じである。糸の先が見えない。でも魚がいるに違いないと信じて根気よく竿を抱えているしかない。もういないと思ったら道具をしまって家に帰るだけだけれど、そしたら食べるものがない。来そうな気がする。なんとなくポイントがあっているような気配がする。下で動いている魚の動きが糸に伝わった・・・ような気がする。こういう期待を心に秘めて、じっくりひとりぼっちで腰を下ろしている感じがする。
これは人とネタ出しをやってもおなじである。みんなで釣りに来ているような感じになる。チーム・ミーティングをしていると、問題だけがどんどんリストアップされていく。「さて、これをどう解決しよう」という段階になると、みんな黙って自分の信じる各ポイントに分かれて、さあ釣るか、という雰囲気になる。こういうときは、自分だけが釣れなくてもだれかが釣ってくれればいい。だれかが何かちっちゃなフナでも釣ってくれたら、そこにポイントを移動するか、それをどうやって料理するかを考えればいいからだ。
以前に別のブログで書いたことだけれど、「ネタはいっぱいある」とただ盲目に信じることが、アイディアをひねり出す一番重要なポイントであると私は思う。釣れないと思って釣りに行く人はいない。みんな釣るために釣りにいく。これが信じられない人は詰まる。川には魚がうじゃうじゃいる。ただ今はエサに引っかからないだけのことである。つれたらどんな魚もうまい。どんなネタも面白いのだ。待っていれば釣れる。あきらめたらもう釣れない。それだけの違いである。と思って、気を取り直してまた考える。
それでどうなったかというと、いろいろな問題は解決策が見つからないまま滞っているけれど、こういうたとえ話は、投げちゃわないためにちょっと役に立つんじゃないかと思っている。
March 21, 2009
反省しません
向田邦子は「手袋を探す」という有名なエッセーの中で「謙虚は奢り」と書いた。いちいち自分の性格やら行動やらを反省するのはヤメて好きなように欲望のままにどんどん突き進んだらいいじゃないか、と言う話である。意外なことに、向田さんはそう決めるのにけっこう覚悟がいったみたいである。
ごくたまーにだが、気が滅入ったり自己嫌悪に陥りかけたときにこの話を思い出して、「反省しない。」と自分に言い聞かせる。人にちょっとひどいことを言ってしまった後でも「反省しない」。わがままをしたり意固地になって引っ込みがつかなくなったときにも「反省しない」。何かの拍子に高価なものを買ってしまって財布が空になっても「反省しない」。そうすると、ものごとがポンと前に開く。うじうじして人に迷惑をかけなくてすむ。
これには品を保つためのちょっとしたルールがある。反省しないかわりに、「自分は正しいことをした」と思い込むための言い訳もしてはいけないのである。たとえば、誰かに意地悪を言ってしまったあとで、「あれは意地悪じゃない。彼のことを思って言ったんだから親切だったんだ」とかなんとかいって自己弁護をしてはいけない。私って意地悪だなあ、と単に認識するだけである。まわりにも、あの人ちょっと意地悪なところがあるよな、と受け入れられればいいのである。
もちろんだめなところは直らない。同じ失敗を延々とくりかえす。しかし、かわりに「らしい」ところが伸びてもっと面白くなる。放射線状グラフで言ったら、五角形の形が徹底的に崩れた、とがったりまがったりつぶれた人間がだんだん出来上がっていく。人間は歳をとればとるほど遺伝子的な差異が表面化して個性が強くなっていくというが、だったら最初からそういうつもりでやったら面白い。
それに、「あ、この人ぜんぜん反省してないなー」という人を見るとちょっと嬉しくなりませんか?
ごくたまーにだが、気が滅入ったり自己嫌悪に陥りかけたときにこの話を思い出して、「反省しない。」と自分に言い聞かせる。人にちょっとひどいことを言ってしまった後でも「反省しない」。わがままをしたり意固地になって引っ込みがつかなくなったときにも「反省しない」。何かの拍子に高価なものを買ってしまって財布が空になっても「反省しない」。そうすると、ものごとがポンと前に開く。うじうじして人に迷惑をかけなくてすむ。
これには品を保つためのちょっとしたルールがある。反省しないかわりに、「自分は正しいことをした」と思い込むための言い訳もしてはいけないのである。たとえば、誰かに意地悪を言ってしまったあとで、「あれは意地悪じゃない。彼のことを思って言ったんだから親切だったんだ」とかなんとかいって自己弁護をしてはいけない。私って意地悪だなあ、と単に認識するだけである。まわりにも、あの人ちょっと意地悪なところがあるよな、と受け入れられればいいのである。
もちろんだめなところは直らない。同じ失敗を延々とくりかえす。しかし、かわりに「らしい」ところが伸びてもっと面白くなる。放射線状グラフで言ったら、五角形の形が徹底的に崩れた、とがったりまがったりつぶれた人間がだんだん出来上がっていく。人間は歳をとればとるほど遺伝子的な差異が表面化して個性が強くなっていくというが、だったら最初からそういうつもりでやったら面白い。
それに、「あ、この人ぜんぜん反省してないなー」という人を見るとちょっと嬉しくなりませんか?
March 18, 2009
らくらくケララっぽいカレー
前回ブログにコメントを下さった方に、特定の苦味がわからないからといって舌が鈍感というわけではない、と教えていただいたので、気をよくして今日は最近開発した新しいレシピを紹介します。インド(風)料理です。
ケララカレー、というのは、インドの南端にあるケララで作られる、ココナッツがたっぷり入ったカレーです。料理本を見るとココナッツの胚乳を砕いてカレーを作るみたいですが、そういうことをやっていると日が暮れるので、乾燥ココナッツの粉(ココナッツパウダー)を使うのがすぐできるポイントです。
【 らくらくケララっぽいカレー 】
1.ボールにココナッツパウダー(たくさん、たぶんひとつかみかふたつかみぐらい)を入れ、チリパウダー、ターメリックパウダーをスプーンいっぱいずつぐらい入れて混ぜる。あったらジーラというスパイスを入れる。普通ないと思うから気にしないで下さい。牛乳、水を適当に入れて、ペースト状にする。
2.ペーストをフライパンかなべに入れて煮詰める。適当に水を足しながらカレー汁っぽくする。
3.好きな野菜を切って、ガーリックと塩で炒める。トマト、にんじん、マッシュルーム、オクラ、などなど。肉とか海老とかあったらすごい。
4.炒めた野菜とか肉類をカレー汁に投入。煮る。おわり。
簡単です。やや粉っぽいが、味はかなりおいしい。日本では、ココナッツパウダーはお菓子の材料売り場に売ってるはず。チリパウダーは唐辛子の粉。ターメリックはカレー類のスパイス売り場に売ってるかな、と思いますがいかがでしょうか。
ケララカレー、というのは、インドの南端にあるケララで作られる、ココナッツがたっぷり入ったカレーです。料理本を見るとココナッツの胚乳を砕いてカレーを作るみたいですが、そういうことをやっていると日が暮れるので、乾燥ココナッツの粉(ココナッツパウダー)を使うのがすぐできるポイントです。
【 らくらくケララっぽいカレー 】
1.ボールにココナッツパウダー(たくさん、たぶんひとつかみかふたつかみぐらい)を入れ、チリパウダー、ターメリックパウダーをスプーンいっぱいずつぐらい入れて混ぜる。あったらジーラというスパイスを入れる。普通ないと思うから気にしないで下さい。牛乳、水を適当に入れて、ペースト状にする。
2.ペーストをフライパンかなべに入れて煮詰める。適当に水を足しながらカレー汁っぽくする。
3.好きな野菜を切って、ガーリックと塩で炒める。トマト、にんじん、マッシュルーム、オクラ、などなど。肉とか海老とかあったらすごい。
4.炒めた野菜とか肉類をカレー汁に投入。煮る。おわり。
簡単です。やや粉っぽいが、味はかなりおいしい。日本では、ココナッツパウダーはお菓子の材料売り場に売ってるはず。チリパウダーは唐辛子の粉。ターメリックはカレー類のスパイス売り場に売ってるかな、と思いますがいかがでしょうか。
March 17, 2009
皺から眠る 開高健の「夏の闇」
開高健の「夏の闇」を読んでいる。久しぶりに、読み出したら字を追う目が止まらなくなる文体に出会った。
物語の内容は、本当はどうでもいい。細部を偏愛するたちなので、本を読むときにストーリーなんかほとんど真剣に追っていない。言葉づかいと、一文の中にあるぎゅっとするひねり、漢語と和語とカタカナのバランスと並び、そういうものを求めているだけである。読んでいて脳に波打つような心地よい文を見つけたら、ずっとぐるぐる同じものばかり読んでいて飽きない。
本の半分ぐらいまで来たが、「夏の闇」は精神的な剥離の恐怖におびえながら旅に拘泥し、怠惰な性と眠りに沈みこんだ中年男の話である。いつも眠たがっていることと、モツが大好きなことをのぞけば、主人公の男と読者である自分との間にほとんど共通点がなく、独白と自己分析を読んでもほとんど身に覚えがないし、その苦悩に共感できない。しかしそれが鋭くて面白い。そんな感じ方をするのか、と新しい他人の感性を学んでいるような感じである。
「私は足の裏や睾丸の皺から眠り始めるのである。そこから形を失い、体重を失っていくのである。」
さっぱりわからない。そういうもんなのか。それはよいとして、「皺から眠り始める」というこの「…から…」の使い方にぐっときてしまい、音楽で言ったら絶妙のところで半音下げられたみたいに頭に残る。ふつう体の部分「から」眠り始めるとは言わない。でもわかりそうな気がする、このもやっとしたところが好きである。
「旅はとどのつまり異国を触媒として、動機として静機として、自身の内部を旅することであるように思われるが、自身を目指すしかない旅はやがて、遅かれ早かれ、ひどい空虚に到達する。空虚の袋に毎日々々私は肉やパンや酒をつぎこんでいるにすぎないのではないか。」
私は旅人をやったことがないし自己の内部を旅する傾向もないので、この内省が身につまされてわかるわけではない。それはどうでもよくて、この「静機として」という聞いたこともない言葉をさくっと使っているところがなんかかっこいい。ここで「動機として」の一回だけでは音感的に物足りなくて「静機として」を思いついて入れたのだろうと思う。「静機」とは何を言うのかよくわからないのだが、こういう飾りが好ましい。一文一文の音と形にこだわっている。
ようはスタイルである。形が全てである。ソンタグはスタイルのない“内容そのもの”は存在しないと言っている。私はそういう深い芸術論は本当はよくわからないけれど、ひとつひとつの文章がかっこよければそれでいいし、そこに全てがあるんじゃないかと感じる。そういう意味では、論文と小説は同じように長文で成り立っているという点を除けば、ほとんど共通点はない。
物語の内容は、本当はどうでもいい。細部を偏愛するたちなので、本を読むときにストーリーなんかほとんど真剣に追っていない。言葉づかいと、一文の中にあるぎゅっとするひねり、漢語と和語とカタカナのバランスと並び、そういうものを求めているだけである。読んでいて脳に波打つような心地よい文を見つけたら、ずっとぐるぐる同じものばかり読んでいて飽きない。
本の半分ぐらいまで来たが、「夏の闇」は精神的な剥離の恐怖におびえながら旅に拘泥し、怠惰な性と眠りに沈みこんだ中年男の話である。いつも眠たがっていることと、モツが大好きなことをのぞけば、主人公の男と読者である自分との間にほとんど共通点がなく、独白と自己分析を読んでもほとんど身に覚えがないし、その苦悩に共感できない。しかしそれが鋭くて面白い。そんな感じ方をするのか、と新しい他人の感性を学んでいるような感じである。
「私は足の裏や睾丸の皺から眠り始めるのである。そこから形を失い、体重を失っていくのである。」
さっぱりわからない。そういうもんなのか。それはよいとして、「皺から眠り始める」というこの「…から…」の使い方にぐっときてしまい、音楽で言ったら絶妙のところで半音下げられたみたいに頭に残る。ふつう体の部分「から」眠り始めるとは言わない。でもわかりそうな気がする、このもやっとしたところが好きである。
「旅はとどのつまり異国を触媒として、動機として静機として、自身の内部を旅することであるように思われるが、自身を目指すしかない旅はやがて、遅かれ早かれ、ひどい空虚に到達する。空虚の袋に毎日々々私は肉やパンや酒をつぎこんでいるにすぎないのではないか。」
私は旅人をやったことがないし自己の内部を旅する傾向もないので、この内省が身につまされてわかるわけではない。それはどうでもよくて、この「静機として」という聞いたこともない言葉をさくっと使っているところがなんかかっこいい。ここで「動機として」の一回だけでは音感的に物足りなくて「静機として」を思いついて入れたのだろうと思う。「静機」とは何を言うのかよくわからないのだが、こういう飾りが好ましい。一文一文の音と形にこだわっている。
ようはスタイルである。形が全てである。ソンタグはスタイルのない“内容そのもの”は存在しないと言っている。私はそういう深い芸術論は本当はよくわからないけれど、ひとつひとつの文章がかっこよければそれでいいし、そこに全てがあるんじゃないかと感じる。そういう意味では、論文と小説は同じように長文で成り立っているという点を除けば、ほとんど共通点はない。
March 13, 2009
恐怖の問いかけ
マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で、アメリカのメディアがいかに人間の恐怖をあおって市民を購買に駆り立てているかを描写していた。その傾向は日本のメディアでもかなり強い。
「あなたの肌年齢はいくつですか?」とか、「あなたの彼女はホントにそれで満足していますか?」とか、「女子社員があなたの匂いに顔を背けていませんか?」とか、「この体じゃ水着が着れない!」、「あなたの睡眠の質は何点?」、「正しい枕、使ってますか?」、「え、私の収入、平均以下?」、などなど。この手のメッセージは、例え日本から遠く離れたインドにいて耳をふさいでいても入ってくる。ジャンクメールや、Mixi広告、サーチエンジンの検索結果ページ、Yahooニュースなど、ほとんどがインターネットを介してやってくる。
私はオンラインの教育関連事業のマーケティングの仕事をしていて、広告やPRに携わることもある。そのため、自分はこの手の、人の恐怖を煽り立てる問いかけを世の中に流布する立場にはなるまいと努力している。しかし効果が高いことはよく知っているから、「あちら側」に下る誘惑は常にある。「あれ、自分はどうかな?」と思わせるような意表をつくメッセージを狙ったりすると、けっこうぎりぎりのものができあがることもある。だから、不安や恐怖ではなく、もっとなにか自然でよきものを駆り立てられないかとよく考えている。
不安や恐怖に駆り立てられて取る行動は長く続かない。なぜなら、不安や恐怖はモチベーションとは別のものだからである。つらいダイエットが続かないのと同じように、「やりたいな~」というポジティヴな志向がそこになければ、ながく愛着を持ってことをおこなうことは難しい。逆に、もしそこになにか自発的で求心的なものが存在すれば、行動の結果を滋養にして、自家発電しながら続けていくことができる。
そういう意味では、ダイエット・グッズの販売なんかは一度買ったら終わりだから、肥満の恐怖を駆り立てて新規の客をどんどん増やすことが目標なのだろう。なにも購買者が1年以上そのグッズを毎日使い続けることを望んでいるわけではない。むしろそれは押入れにしまってもらって、また新しいグッズを買ってもらうほうが助かるわけである。
それとは逆に、教育産業では、利用者がどれだけ長くサービスに愛着を持ってくれるかが問われてくる。勉強は、基本的にしちめんどくさいものである。そこを、利用者個人の中に「もっと学びたい」というモチベーションを発見して、サービスを通じてさらにそれを消えないように育てるわけだ。クライアントはみんな個性的過ぎて標準化できない。「いろいろな人がいて、いろいろなニーズがある」というところを越えて、「一般的な人」に受け入れられる何か標準的なものを打ち出すということができない。だから、マスを対象にそのマーケティングを行うのはあんまり簡単なことではない、と常々感じている。
恐怖のメッセージを受け取る視聴者側として一つ心得ておくといいのは、「その問いは “自分にとって” 価値があるか」と一度考えてみることだ。「あなたの睡眠の質は何点?」と問いかけられて、すかさず「うーん、そういえば何点だろうな・・・」と考えたり、反省してしまってはいけない。その前に、「は?睡眠の質とかって、それ、何?意味あるの?っていうか、ばかじゃないの」という態度で、一度人から投げられた問いの価値自体を問うてみたほうがいい。なげかけられる情報やメッセージが、何もかも自分に関係すると思ってはいけない。
これは山田ズーニーさんがコンテンツ「大人の小論文教室」の中で書いていたことから学んだ。山田さんはインタビューでいろいろな質問をされたあと、できた原稿を見てこれは自分ではない、と感じ、なぜそんなことが起きたか考えたという。結果、他人から投げられた、「自分の中に存在しない問い」に無理やり答えることで、自分の表現したいものとは違うものが現れてしまった、みたいなことを振り返っていた。睡眠の質テストのスコアが100点中30点だったからって、ヘンな枕を買ってはいけない。売る側のつまらない標準化に乗せられてはいけない。自分の頭で、自分だけの問いを立てないといけない。
「あなたの肌年齢はいくつですか?」とか、「あなたの彼女はホントにそれで満足していますか?」とか、「女子社員があなたの匂いに顔を背けていませんか?」とか、「この体じゃ水着が着れない!」、「あなたの睡眠の質は何点?」、「正しい枕、使ってますか?」、「え、私の収入、平均以下?」、などなど。この手のメッセージは、例え日本から遠く離れたインドにいて耳をふさいでいても入ってくる。ジャンクメールや、Mixi広告、サーチエンジンの検索結果ページ、Yahooニュースなど、ほとんどがインターネットを介してやってくる。
私はオンラインの教育関連事業のマーケティングの仕事をしていて、広告やPRに携わることもある。そのため、自分はこの手の、人の恐怖を煽り立てる問いかけを世の中に流布する立場にはなるまいと努力している。しかし効果が高いことはよく知っているから、「あちら側」に下る誘惑は常にある。「あれ、自分はどうかな?」と思わせるような意表をつくメッセージを狙ったりすると、けっこうぎりぎりのものができあがることもある。だから、不安や恐怖ではなく、もっとなにか自然でよきものを駆り立てられないかとよく考えている。
不安や恐怖に駆り立てられて取る行動は長く続かない。なぜなら、不安や恐怖はモチベーションとは別のものだからである。つらいダイエットが続かないのと同じように、「やりたいな~」というポジティヴな志向がそこになければ、ながく愛着を持ってことをおこなうことは難しい。逆に、もしそこになにか自発的で求心的なものが存在すれば、行動の結果を滋養にして、自家発電しながら続けていくことができる。
そういう意味では、ダイエット・グッズの販売なんかは一度買ったら終わりだから、肥満の恐怖を駆り立てて新規の客をどんどん増やすことが目標なのだろう。なにも購買者が1年以上そのグッズを毎日使い続けることを望んでいるわけではない。むしろそれは押入れにしまってもらって、また新しいグッズを買ってもらうほうが助かるわけである。
それとは逆に、教育産業では、利用者がどれだけ長くサービスに愛着を持ってくれるかが問われてくる。勉強は、基本的にしちめんどくさいものである。そこを、利用者個人の中に「もっと学びたい」というモチベーションを発見して、サービスを通じてさらにそれを消えないように育てるわけだ。クライアントはみんな個性的過ぎて標準化できない。「いろいろな人がいて、いろいろなニーズがある」というところを越えて、「一般的な人」に受け入れられる何か標準的なものを打ち出すということができない。だから、マスを対象にそのマーケティングを行うのはあんまり簡単なことではない、と常々感じている。
恐怖のメッセージを受け取る視聴者側として一つ心得ておくといいのは、「その問いは “自分にとって” 価値があるか」と一度考えてみることだ。「あなたの睡眠の質は何点?」と問いかけられて、すかさず「うーん、そういえば何点だろうな・・・」と考えたり、反省してしまってはいけない。その前に、「は?睡眠の質とかって、それ、何?意味あるの?っていうか、ばかじゃないの」という態度で、一度人から投げられた問いの価値自体を問うてみたほうがいい。なげかけられる情報やメッセージが、何もかも自分に関係すると思ってはいけない。
これは山田ズーニーさんがコンテンツ「大人の小論文教室」の中で書いていたことから学んだ。山田さんはインタビューでいろいろな質問をされたあと、できた原稿を見てこれは自分ではない、と感じ、なぜそんなことが起きたか考えたという。結果、他人から投げられた、「自分の中に存在しない問い」に無理やり答えることで、自分の表現したいものとは違うものが現れてしまった、みたいなことを振り返っていた。睡眠の質テストのスコアが100点中30点だったからって、ヘンな枕を買ってはいけない。売る側のつまらない標準化に乗せられてはいけない。自分の頭で、自分だけの問いを立てないといけない。
Subscribe to:
Posts (Atom)

