January 15, 2009

自由な、仕事の選び方

先日、日本の大学生の人と飲む機会があった。話を聞いていたら、大学生時代の友達が就職活動中に「自分が人生で何をやりたいのかを定義しようとして悩んでいたら、自分がなぜ生きているのか、という哲学的な自己の存在意義まで問いはじめてしまった」と語っていたのを思い出した。

今はどういう雰囲気なのかわからないが、私が育ったころの学校には、「夢を職業にすることが人生の大きな意義である」というなかなか強固なイデオロギーがあった。小学校のときに何度夢の職業を書かされたかわからないし、中学校では元服の歳に生徒全員が将来の夢を墨と筆で書いて体育館に掲示した。

一般的にいえばその結果として、高校、大学時代に本格的な就職難の時代に突入したころ、その夢と現実との落差を埋めるのに苦労した世代である。今は、あの雰囲気が多少は薄れて、学校でももっと実践的な職業、進学指導をしているのではないかと思うが、実際どうなのかは知らない。

私の働いている会社には、英文校正を仕事にする若いエディターたちがたくさんいる。たとえば、大学で医学を学んだ人が、医学論文の英文校正をする。人類学を学んだ人が、人文系の研究論文の校正を仕事にする。そして、彼らは一生エディターでいるわけではない。医学論文のエディターがMBAを取りに大学に戻って次はマーケッターや企業家を目ざしたりする。英語のインストラクターをしていた人が、退職してブティックを開いたりする。

こういうフレキシブルな仕事の選び方は、人生やものごとに一貫性を求める日本の雰囲気からは異質に見える。ふつう、医学を学んだ人が医者にならずに校正者になったら、日本では一種のドロップアウトに聞こえるだろう。しかしここにはそういう価値観があまりないように感じる。

アイデンティティが職業選択とさほど深く結びついていない。私は「アイデンティティ」という概念そのものが今の時代にはあまりそぐわない古いものだと思っているのだが、それでも実際この職業的価値観の多様さを目の当たりにすると驚く。この驚きが自分だけのものなのか、自分の世代に共通したものなのかはわからないのだが。

私の場合も、自己のアイデンティティの確立とやらをやるだけ時間の無駄と決めて、ある意味職業に対して受身になってみたあとから、むしろ自分が自然と浮き彫りになってきたような気配がある。糸井重里さんはどこかのコンテンツで「自分が何をやりたいかではなく、来た球をどう打つかを考えて生きてきた」というようなことを言っていた。飛んできた球をどう打つか、そのバットの振りに結果として自分が表れてしまうのだ。

しかし本当に重要なのは、そこに映る自分とやらを見ないことである。そんなことよりも、打った球がどこに行くかを興奮して眺めているとき、その人は青年期の自意識を越えていける。そんなふうに、自分をどんどん失っていけたらいいと思う。

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