January 6, 2009

Being Away

人が海外に出て暮らす決断をするとき、そこには海外で暮らしたいという表向きの動機の裏に、自分の国を離れたい別の動機があると私は想像する。人の事情は知らないから本当のことはわからないのだが。

私の場合、もう何もかも放り出してとにかく遠くに行くしかない、というありがちな願望をつい実行に移した結果こうなったのであって、英語ができるようになりたいとか、異文化を学びたいとか、そういうろくなこころざしはいわばあとづけのようなものであった。だから「なぜインドに来ようと思ったんですか?」という、よくある質問に対しては、自分が聞いても聞かれても、「これは答えのための答えであって本当に聞きたい答えが返ってくるわけじゃない」と最初から疑っている。自分に向かっても時々言うことだが、この種の質問は聞くほうが悪い。仮にも想像力があるのならつまらないことを聞くものではない。

会社のアメリカ人の女性は、「I just like being away」と言った。アメリカが恋しくなることってある?という質問をしたときだったかもしれない。それを聞いて、そうだな、と思った。「離れていたい」というと、日本語ではネガティヴな意味に聞こえるかもしれないがそうでもない。「自分をアウェイに置いていたい」と言えば昔のサッカー選手みたいでかっこよすぎるしそれとも違う。ただその状態が心地よく、自分にふさわしいような気がすると言ったらいいだろうか。仕事も住まいも人間関係もすべてが仮のものに過ぎず、自分が次にどこにいるのかわからないという状態に安堵感を感じるのだ。

私の勤めている会社はインドの企業である。給料はインドで暮らせるレベルのものに限られているし、契約期間も長くない。だから、大人になって職業経験を経てから今の就職してくるアメリカ人や日本人、イギリス人などの外国人たちは、「いずれはどこかに帰る」という種類の人生を歩んではいない人々であると私は見ている。長く勤める気があるわけではない、かといって、来年の今頃自分がどこにいるのかはわからない。どうなってもいいと思っているのではなく、どうにでもなると思っている。だから組織にしがみついたりもしない。

もう一人のアメリカ人の女性は、「私はマネージャーにだけは絶対なりたくない。気楽に休みが取れなくなるもんね」と言っていた。お給料はそりゃあ多いほうがいいけど、それと引き換えに自由を奪われるぐらいならそこそこ貧乏で結構、という感じの人が多いように見受けられる。こういう人たちを眺めていると、自分も離れてみてよかったなぁと思う。

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