March 5, 2009

インドのビッグ・ウエディング(2) 運命のある人生、運命のない人生

とにかく数え切れないほどの儀式が立て続けに行われるインドの結婚式。インドの中でも、地域やカーストによってしきたりや衣装なんかがぜんぜん違うらしい。友人のカーストでは、結婚前夜に次のような儀式を執り行う。

1. 白いサリーを着て、ドラムバンドに見送られて、家の近くの祠におまいりする。
2. 家族で地域の一番大きなパールバティ寺院とシバ寺院に行き、お参りして花をもらってくる。
3. 家に司祭が来て、おじさんとおばさんと花嫁の3人で長いお祈りをする。
4. つづけてお母さんとお父さんと花嫁の3人でお祈りをする。
5. それから親戚のおばさんとおばあちゃんが勢ぞろいして、ひとりひとり花嫁に向けてお祈りする。
6. 一同で植木にターメリックを塗りつけてお祈りする。
7. そのあとみんなで花嫁にターメリックを塗りつけてお祈りする。
8. 夕方になったら近所の人や友達、遠い親戚まであつまって、庭でご馳走を食べる。
9. バンドがボリウッド音楽を演奏して、みんなで踊りまわる。花火と爆竹が深夜まで続く。

書いただけでけっこう疲れてしまったが、おもしろいのは儀式に参加する誰もが、そこで何をすべきかを知っていたことだ。

おばさんたちがお盆に色のついた粉や砂糖、線香を乗せてかわるがわる花嫁に向かって祈りをささげている。見ていると、だれも「えーっと、次にどうするんだっけ?」と迷っている人はいない。おばあちゃんたちが儀式の途中でエキゾチックな歌を誰となく歌いだし、合唱になる。よくよく聞いてみると、歌の中に花嫁の名前が歌いこまれている。伝統的な結婚の歌らしい。きっとこれまでに何十回も同じことを繰り返してきたんだろう。

来客にふるまう料理、儀式で着るべき衣装の色や化粧、祈りの言葉、すべてが古くから決められてるしきたりに従っている。彼女の結婚相手すら、同じ街で生まれ、伝統に従って占星術で選ばれた人である。誰と結婚するのか、どうやって結婚するのか、なにもかもが定めなのだ。迷うところがない。結婚は当人たちのものではなく、一族の命運をかけた一大イベントなのである。結婚する友人はもちろん、参加する家族たちみんなが役割に燃えて、喜びに満ちている。

結婚は、生きたら死ななければいけないのと同じレベルで人生に組み込まれた運命なのだ。

「自由という不自由」というのがある。伝統やしきたりから離れた暮らしでは、あらゆることにおいて、自分自身で選び、決断しなければならない。何が正しいのか、何が間違っているか、未熟な心で一抹の判断を下す。あとで失敗の責任を取るのも一人、後悔を味わうのも一人ぼっちである。現代人の生涯には、その種の孤独と不安が常につきまとって、人の精神を不自由にしている。友人たちの暮らしを考えながら、私はそういう「運命のない人生」を送っているんだ、と思った。

どちらが自由で、創造的なのか?

よくある問いかもしれないが。どちらが幸福であるか、という価値的な意味ではない。例えば、運命の定まった人生を送れば、自分が人生に何をもとめているのか、というような内向的な問いの解決に時間を使うことなく、何かもっと外交的なことに向けて時間と力を使えるかもしれない。でも逆に、選択肢が多いがゆえに生じる内向的な問いを解決することだって、創造的である。わからない。たぶん「どちらが」という問いを立てることじたいが間違っているのだろう。

5 comments:

  1. 結婚式レポートありがとう。
    結婚式のサリーは赤で、白は寡婦のサリーってのが定番だと思ってたけど、いろいろ違って面白いねー。彼女の花嫁姿、きれいだっただろうなー。見たかった。

    「伝統に決められた運命に従う人びと」と「自由な近代人?」ってところで、伝統的な結婚式をしてるからって、何もかも定めで迷いがないってのはいいすぎじゃないかしら。まあそれほど圧倒されたという勢いは伝わってくるけど。

    占星術で相手を決めるといっても、気に入らなかったら断るだろうし、迷いはもちろんあったと思うけどなー。逆に日本でも、全人類から相手を選ぶわけではなく、合コンとか職場とか知人の紹介とかで出会うわけで、形態が違うだけで選択肢がそこまで多いわけでもないんじゃないかな。

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  2. (あれ?これ二重投稿になってたら無視してね)

    コメント書いた後バイトしながら考えてたんだけど、私の書いたこともまた、人類学の教科書的な説明では、自分たちの文化の主体とか個人の考え方を普遍的なものとして対象に押し付けてるってことになるんだよなー。「彼らは、一般的に言われるように慣習に縛られて生きているのではなく、自分たちと同じように主体性を持って生きているんですよ」と説明することで、別の個人概念とか、アイのいうような別の自由とか創造性のあり方ってのを見逃してしまうことになるという。

    私はどうも創造性がなくていかんねぇ。

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  3. 人類学者ってほんとにそうやってすごい内省するんだね・・・。

    確かに、最初のコメントはわかるけれど、文化的にニュートラルな立場を取ろうと弁護して、逆にその主張の背骨に自分の文化が正常であるという思想が現れたことを、さらに自己反省する・・・って、どれだけ謙虚なんだっ。

    いや多分ね、彼女の家が特に伝統的なお家なんだと思うよ。一応、両親が決めた相手でも本人たちが気に入るかどうかを見てから婚約を決めるらしい。でも、感じとしては、「受ける」と「断る」のカードが並列に並んでいるというよりは、「断る」は念のため与えられたオプション、という印象がある。

    例えば私なんかは「結婚しない」という選択肢が当たり前のようにテーブルにのっているんだから、そこのところの前提はだいぶ違うように感じる。

    でも混乱しがちだけど、要は価値の話をしているわけじゃないんだよね。選択肢があるほうが良い、自由であるほうが良い、という話をしてるわけじゃなく、そういう違いが面白いというか、気になるというか。

    恋愛結婚が当たり前の社会と、見合い結婚が当たり前の社会では、同じ名前で呼んでいても、多分結婚や結婚に伴う幸福感の定義が違いすぎて、同じ尺度では比べられない。そのズレの部分がいったいどう違うのか、わかるような、わからないような、気持ち悪いところ。

    でもさ、日本人が恋愛に向けてるエネルギーをほかの事にもし費やせたらすごいよ。無理だけど。

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  4. そうなんだよねー。人類学。
    私も最近受験勉強で人類学の本読んだから、何かもう何も書けないんじゃないのって弱気になってるんだけど。

    同じ名前で呼んでても違うものの面白みってのはあるよね。同じというか、それは翻訳した結果なんだけど、翻訳が一体どこまで可能なのか。

    ところで、日本人ってそんなに恋愛にエネルギー費やしてるかな?

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  5. そうだね、それこそ人それぞれだね多分。

    名前は、翻訳したことばと近い概念がすでにあった場合に、その意味のズレがややこしくなりそうだよね。

    もう反省しないようにしたらちょうどいいんじゃないか?人類学って、部外者からすると純粋に興味を満たすための学問って印象なんだからさ。

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