August 21, 2008

別のものを買って帰る

会社の先輩が飲んでいたオーガニック・インディアのハーブティーがおいしかったので、土曜日に買いに行った。店に入ってお茶のパックを発見し、店員さんにどれぐらい入ってるのか、葉っぱそのままか、ティーバックか、といろいろ質問して、さて買おうと思ったら隣のチョコレートの棚が気になった。チョコレートを吟味していたら、その向こうの美容コーナーが目に入ったのでマッサージクリームなんかを手にとって眺めてみた。店員のお姉さんが、「向こうにもいろいろあるから見てみたら」と勧めるので、「うん」とうなづいてついていって、いろいろ肌タイプのカウンセリングなんかをしてくれるので熱心に聞いていたら、スキンケアがすごく大事なように思えてきて、なんだか化粧水やらスクラブ洗顔料やらいろいろ買ってしまった。

店を出てしばらくして、「あ、お茶買わなかったなぁ…」と気付いた。

以前に兄が、よく何か買いたいものがあってお金を握って街に出たはずなのに、どういうわけかそのお金で別のものを買って帰ってきてしまうことがよくある、と言っていた。それでもなんだか満足してしまうというのである。そのときはおかしな話だと思ったけれど、考えてみると自分も似たようなことをしている。きょうだいそろって移り気なのである。

お茶を買いに行くぞ、と決めたら初心貫徹してお茶を買って帰る、それだけのことがなかなかできない。お茶を買おうと計画していても、一度街へ出てみれば、そのお金で買えるいろんな可能性がわーっと開けてしまうのである。フレキシブルというべきか意志薄弱というべきかは微妙なところだ。世の中にはこれと反対のタイプの人間がいる。たとえばちょっと前に雑誌なんかでよくピックアップされていた、「夢がかなう手帳術」なんてのはその典型である。十年後の目標を手帳に書いて、ゴール達成に必要なやるべきことを逆算して書き込んでいき、小さな計画をこつこつ実行していくことで夢を確実に実現できる、というやつだ。多分そういう生き方ができる人が世の中にはちゃんといるのだろう。私にはできない。5分後の自分が何を考えているのかさえ分らないというのに。

故池田晶子さんは、「私には将来という感覚がない」と書いていた。未来なんて観念に過ぎないんだから、未来のことを憂うことなんてできないじゃないか、という話である。たびたびこの言葉を思い出して、時間を越えた首尾一貫性を生き方にどれだけ求めるべきかと考える。暫定的な結論としては、そんなもんどうでもいいよ、というところで落ち着いている。5分前の自分にこだわるより、その瞬間の情熱やひらめきが運んでいくところにいつも自分を置いていたほうが楽しそうだ。そんな人生に達成は訪れないか?どうだろう、そうとも限らない。それに、そもそも人生において何らかの達成が必要なのかどうかもわからない。ただ、そういう生き方をしていると周りの人に「あの時ああいってたくせに」としょっちゅう文句を言われるのは必至である。

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