August 25, 2008

どこにいたって同じだからこそ、どこかへ行くのだ

なぜインドにしたのか、と人に聞かれると返答に困る。あまり人を説得できるようなまともな理由がなかったからだ。前に務めていた職場をやめて、学生時代に行きたくて行けなかったインドにしばらく長期滞在してぼんやりしようと旅雑誌をめくっていたのだが、貯金がなかったので就職先を探したのである。そう言うと、「へー、思い切ったねぇ」と感心してくれる人もいるけれど、私としては逆に安全なほうの道を選んだのである。旅と暮らしでは成り立ちがずいぶん違う。

インドといえば、日本人にとってはドラマティックな印象が強い国である。高校生や大学生のときに沢木耕太郎や藤原新也のノンフィクションや遠藤周作なんかを読んで、インドはなんちゅーワイルドな国なんだ、と思っていた。ガンジス川で沐浴して自分の業を川に流してみたり、のら犬に食い殺されそうになったり、とにかく価値観を大きくひっくり返すような出来事が彼らの行く道に起こる。

しかし、作家たちはその目や肉体に、人を魅了するドラマを追い求め発見する能力が身についているのに違いない。私が発見するインドはそれに比べていまいちドラマ性を欠いている。ものを見る視点が地味なのだろう。道端でおいしいスナックを発見したとか、スイカが小さい、とか、Bataのビニールサンダルはどんなに履いても壊れないとか、どの俳優がどの有名人と仲が悪いとか、そういう細部ばかりがつい気になる。そして、世界とそれを見る人の視点とは相互に影響を及ぼしあうのであって、私のインドにはスペクタクルやアクションはなく、人と食べ物と仕事と本と映画がある。じゃあ日本にいるときと一緒じゃないか、といわれればそうなのだが、人はインド人で、食べ物はインド料理で、仕事はインド企業で、本と映画はインド製、という違いがある。その細部の違いが意外に大きい。

「どこにいったって同じなんだから、どこにも行く必要はないじゃないか」という人もいる。日本でやったって、海外でやったって、やることは同じだから外に出る必要はないと。私はこれまでに複数の人が若年者にそう進言するのを聞いたことがある。しかしむしろどこにいったって同じだからこそ、どうせなら別の場所にいろいろいってみたらいいじゃないか、となぜ言えないのか。生き方は変えられなくても、生きる場所は好きに変えられるのである。そして、新しい場所では必ず何かを学ぶことを強いられる。

海外に出て暮らしてみたいという人に対して「そんなのやめときなさい」と言う理由を思いつけるとしたらひとつしかない。自分の手元から離れてほしくない、ということだ。スーザン・ソンタグは『良心の領界』の中で若い読者に向けて、「旅をしてください。しばらくの間別の国に住むことです。」とアドバイスしている。「海外に出るために海外に出る」というのが、海外で暮らすことを選ぶのに最も適した理由であるように思える。

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