雨季になってからの2ヶ月で、傘を3本買った。だらしない性格なので、すぐに物をなくす。昨日も実はテーラーに傘を忘れかけて、雨がぽつぽつ降ってきたおかげで気がついて歩いて戻った。あの、傘を忘れたことに気づいて戻るとき「・・・戻るか。」と決断するときの悔しさといったらない。自分にあたるしかない。いらいらしそうな自分をなだめて呼吸を整えながら、来た道を振り返る姿は果敢である。
最近、キャッシュカードの暗証番号を自分が覚えていないことに気づいた。しばらくキャッシュカードを使わなかったから、暗証番号を忘れてしまったのである。昔銀行から届いた手紙を確認してその番号を押したが、エラーになってしまった。ということは、自分は暗唱番号を変えたのだろうか。しかし変えたかどうかすら覚えていない。そもそもどうしてしばらくキャッシュカードを使ってなかったかというと、キャッシュカードをなくして、再発行するのに3ヶ月もかかったからで、その間チェックでお金を大量におろしてあったので、カードを使うあてがなかったのである。「どうして私ってこうなんだろう?」と今までの人生でもう10万回は唱えた文言を唱えて、しぶしぶ銀行に電話をかけている毎日である。どういうわけかつながらないので困っている。
高校時代にエッセーの課題があり、「私はだらしない。しかしこれは生まれつきのようで、何度直そうとしても直らないのであきらめようと思う」という内容の文を書いたら、先生の評価に「誰でも気をつければ直せるから直しなさい」と加えられていた。そうなのだろうか。いまだにそれがわからない。しかし、少なくとも、息をしずかに飲み込んで、自分のした失敗の後処理をすることにはだんだん慣れてきたように思う。別にだからどうということはないが、ポジティヴに考えればある部分は成長しているといって差し支えないと思う。
「自分を知ることが大事だ」と百万人の立派な人が言っているが、自分を知るといいことのひとつは、自分のアホさ加減に気づいてしまったら、もう簡単に人の非難なんかできなくなることである。一生懸命生きているのに、それでもこれだけ欠落がある自分の状態を思うと、人に立派さを求めるのはフェアではない。一方で、自分以外の人はせめて自分よりまともであって欲しい、と思わないでもないが、それはわがままというものだろう。
毎日非常にくだらないことのために時間と労力を費やして生きている。もっとずっと若いころは、そういう自分に我慢が出来なかったが、最近はもう仕方ないやとすこしは思うようになった。「忘れ物を取りに行く」という行為が自分の人生の時間の、あるいは6分の1を占めていたとしても、まあ黙って取りに戻るしかない。一見くだらないと思える時間と、貴重なことをしていると思える時間の区別がだんだんつかなくなってくる。まあいいか、という気がしてくる。