May 30, 2009

「誇り」の価値観

これまでの経験からいうと、インド人のヒンドゥ教徒で自分のカーストを自己紹介で言う人間はブラフマンだけである。人に尋ねにくいデリケートな話なのであまり具体的な情報が入ってこないせいか、2年間ムンバイに住んでいてもいまいち現在のインドのカーストシステムがどうなっているのか私にはいまいち全体像がつかめない。しかし一つだけ言える事実は、自己紹介で自分がブラフマンだと言う人はブラフマンの生まれであることを誇らしげに語るということだ。

こういうとき、「あ、そう。・・・で?」という反応以外にはしようがない。その価値観の完全に外にいる人間からしてみれば、なにがどう誇らしいのか、びっくりすればいいのか感心すればいいのか、まるでわからないのである。こういうことがあると、なんとなく不愉快なような、奇妙な感覚が残っていつまでも気になる。そんなことを誇りにして恥ずかしくないのか、と正直反感をもつこともある。

でも実際には、ブラフマンであるということがその本人にとってどういう意味を持つのかは私には分かりようがないので、つまらない議論をしないで黙っているよう心がけている。そういうファンダメンタルな部分で価値観が違う相手とファンダメンタルな部分で話し合っても、意見が一致したりすることはほとんど永久にないといってよい。

何に誇りを持つべきか、持たざるべきかは、文化や個人の価値観によって違うからなかなか他者と共有できない。しかし、それ以前に、「誇り」みたいな高尚な感情そのものの存在が不気味だし、危うい香りがするから好きになれない。人が自分について何かを誇りに思っている様子をみるとなんとなく惨めに見えるし、自分自身の中に何か誇らしい気持ちわいてくると、頭の端でもう一人の自分が自分の幼稚さを笑っている声が聞こえてくる。

それとは反対の表現に「謙虚」があるが、「謙虚」は「誇り」のコインの裏表である。

以前、インドに住んでいるイギリス人の知人に「インドは英語が通じるから、イギリス人には便利は便利だよねぇ」というようなことを言ったら、「自分はイギリス人だから、世界中のどこに行っても英語でコミュニケーションできる。外国の人たちは一生懸命英語を勉強して、イギリスやアメリカの人間と話そうと努力している。そのせいで自分は怠惰になって、他の国の言葉を学んで現地の人と話すという謙虚さを失ってしまう。だからできる限り英語以外の言葉を学ぼうと努力している」と真剣に返された。こういうのをノーブレス・オブリージュというのか、と思った。素晴らしい態度である。

しかし、英語ネイティヴでない人間が聞くと実際にはあんまりピンと来ない理屈ではある。旅行したり、国際的なビジネスやアカデミックな世界では英語ネイティヴであることがアドバンテージになることは確かにあるのかもしれないけれど、それはそれである。何も勤勉だから英語を勉強しているのではなくて、必要に駆られて勉強しているのである。そこを生きる姿勢の話に読みかえられると、必然的に英語ネイティヴでない人間のほうが社会的な立場上、下であると暗に言っているように聞こえる。そういう感覚は、無意識に上からものをいっている人間には感知できないが、文脈的に下の立場にされた人間にとっては身にしみて感じることである。

他人の価値観はほんとうにわからない。共有しようとしないで、ただ現象として理解するしかしょうがない。他人もまた、私の価値観に対して同じだけ謎に思い、ときには反感を感じているのだろう。

May 21, 2009

電子レンジで作る簡単照り焼きチキン

会社の同僚の日本人の方々が、最近ついに電子レンジが使えるフラットに引っ越した。これまでのフラットはアンペアが低すぎて、電子レンジを使うとブレーカーが落ちてしまったのだそうだ。というわけで、お祝いに私の超簡単照り焼きチキンレシピを紹介します。


1. 鳥の胸肉のかたまりをハイパーシティーかSector-17の肉屋で買ってくる。量、ワンパック。

2. 電子レンジ専用のタッパーに肉をそのまま入れる。コショウと塩をちょっとまぶす。

3. 醤油おおさじ1~2、砂糖おおさじ1~2、蜂蜜おおさじ1~2をそのタッパーに入れて5分ぐらい漬け、肉をひっくり返してまた5分漬ける。

4. 電子レンジに4分かける。肉をひっくり返してまた4分かける。するともう肉に味がしみ込んでしまう。

5. ここで肉を取り出し、タッパーに残った肉汁とソースをフタなしで1~2分煮ると照り焼きソースができる。

6. 肉にソースを絡めて出来上がり。


簡単で失敗無し。おいしいので試してみてください。

May 16, 2009

日本とインドの類似と相違

ちょっと前に、インド人の同僚数人とブッフェ形式の立食をする機会があった。そのときに、食べ終わったお皿を誰が片付けるかということで、遠慮のしあいが起こった。

「あ、私もちょうど食べ終わりましたから、お皿一緒にもって行きますよ」
「いやいや、大丈夫、あとで自分でもって行きますから」
「いえいえいえいえ、ホントに、やりますから、お皿を渡してください」
「いやいやいやいやいや、ほんとに気にしないでいいですから」
「まあまあまあまあまあまあ、やらしてください、ほら、お皿を下さいってば」

・・・みたいなことを延々とやり続けるのである。どっちも譲らないのでいっこうに交渉が終わらない。あんまり長いので、途中でゲームみたいな雰囲気になってきて、お互い「負けませんよ」という感じになる。珍しいことだがときどき見られるのである。へー、インド人もそんなことするのか、とけっこうおどろいた。

先日、仕事で「嫁と姑の争いを止める夫」というイラストを描いていたところ、インド人の同僚がそれを見て「おお、典型的なインドの家庭の図だね」という。いや、日本の家庭のつもりで書いたんだけどね、と答えると、「えー、日本でも嫁姑戦争って存在するのか、インドだけの特徴かと思ってた」と言われた。インドでも伝統的な日本の家庭と同様に妻が夫の家に嫁いでくるのが一般的なので、嫁姑問題はけっこう深刻なんだそうである。古典的なお昼のドラマの題材でもある。

ところかわっても、人間関係のこういった機微は変わらないものなんだなあと思う。

一方で、自分の常識が通じない場面ももちろんよくある。2、3日前も、道を歩いていたらスラムの子どもが3人ほど駆け寄ってきたので鞄に入っていた自分のおやつのあまりの安いカステラを人数分だけ一番先頭にいた子どもに渡した。よく見かける子どもたちのグループだったので、仲間3人でちゃんと分けるだろうとなにも疑わずにあげたら、その子はカステラを一人で全部もってさーっと走ってどこかにかけていってしまった。

「あ」と思ったときには他の子たちが、なんで私にはくれないのよ、という非常に恨めしい目をしてにらんでいた。こういう場合はちゃんと一人ひとりの手にわたさないとだめなのである。昔、小学校でよく兎を飼っていたが、菜っ葉を差し出すと大体5匹もいたらアグレッシブで力の強い2匹ぐらいが走ってきて奪い合いになり、体の小さい子兎はこわがって近づけずご飯にありつけなかったが、あれとおなじなのである。大きい兎が固い菜っ葉に夢中になっている隙に、小さい兎にうまく食べさせるのに苦労した記憶がある。

何が同じで何が違うのかは、人と付き合って経験してみないとわからない。自分のアクションにどんな反応が返ってくるのかをびびらずに、期待をせずに、面白がって観察していると、類似性と相違がさまざまに見えてきて面白いのだ。

新しさの2つの形

仕事で毎日ネタ不足に悩んでいる。思いつきは山のようにリストアップされていくのだが、実際何がいいネタでなにがたんなるくだらないネタなのかを始める前から判断するのが難しい。だからほとんどの場合、うまくいったときの絵が浮かぶかどうかと、思いついたときのアドレナリンの分泌量で決めるしかない。

問題は、「このネタははたして本当に新しいのか」ということである。新しさには基本的に2種類ある。

1. 既存の問題(テーマ)に対するアプローチ方法が新しい
2. 提示した問題(テーマ)そのものが新しい

1のほうは、すでに世の中に存在する、だれもが謎に思っているような問いに新しい角度から答えるやりかたである。ラーメン屋で例えると、「このスープをどうしたらもっとおいしくできるのか?」というファンダメンタルな問題に対して「とんこつと鶏がらを一緒に煮たらどうか」、「昆布を入れたらどうか」、といった新しい解決策をみつける。成功すれば、結果として『もっとおいしいスープ』という、誰もが求めているものが出来上がるので、たくさんの人に愛好してもらえる。

2のほうは、こっちもラーメン屋でいうと新しいラーメン料理を考えるということになる。たとえば、チャーシューを細―く切って麺の代わりにした『これがホントのチャーシュー麺(肉が大好きな人用)』とか、ラーメンを肉まんの中に詰めた『ラーメンまん(戦いません)』とか、そういうやつを開発するわけである。こっちの場合、よほどそのアイディアが「ああ、それだよ、それだったんだよ」という人々の共感を得られない限りヒットしない。そうすると、単なるくずアイディアということになってリスクが高い。

というわけで、仕事では1の新しさを追求することのほうが圧倒的に多い。「こんなの見たことなかった」というホントの新しさで勝負するのは危険だし、難しい。誰かがすでにやっていることの、そのちょっと上を行きたい、そしたら少なくともマーケットがすでに存在しているし、成功すればちゃんと売れることが分かっているからである。ただし、自分のほうがうまくやれるかどうかの保証はない。トライしても、たいていの場合特に新しくもなんともないものができてそれで終わりである。

そういう仕事ばかりしているとだんだん自分が後追いをしているだけだという事実にうんざりしてしまうこともある。とことんくだらなくてもいいから、まったく誰も考え付いたことのないところで新しいとんでもないことをやれたらいいのにという気持ちになることもある。

これは仕事に限ったことではなく、いろんな状況にあてはまる。例えば学術研究で言ったら、1.先行研究が大量にあるテーマ、2.先行研究が一つもないテーマ、である。1の場合はみんながやってるから世の中に価値は認められやすいけれど、自分が他に秀でる見込みが少ない。2の場合はうまくすれば先駆的な研究になるけれど、誰の興味も引かない可能性が大である。

人生にどちらを追求するかは、性格とか好みとかで分かれるのだろうが、自分がどちらに向いているのかはわからない。いずれにしろ、もっと面白い仕事をしたい、というところに尽きるのだが。

May 4, 2009

抜け毛予防シャンプーを買うな―女性の髪と石のフロア仮説

インドでは、なぜか女性用抜け毛予防シャンプーがやたらと販売されている。テレビでもあらゆるメーカーが抜け毛予防シャンプーを宣伝していて、「Hair fall防止80%!こんなに引っ張っても抜けません。」みたいなコピーをじゃんじゃん流している。日本ではあんまり女性用の抜け毛予防シャンプーは主流ではないのでなんとなく変だ、と常々思っていた。

なぜか。インドでは環境と気候のせいで髪が抜けやすくなるのだろうか、と最初は考えていたのだが、最近別の理由に気づいた。

私の仮説では、これは単純にインドの床が白い石作りだからである。実際、インドの家に住んでみると分かることだが、たいていの家は床が大きな白い石のタイルで敷き詰められていて、ピカピカ光っている。掃除をしないで3日も放置しておくと、床の上に落ちた自分の髪の毛が非常に目立って不快なのである。

しかも、これは長い髪をした女性だから、30センチも40センチもある黒い髪がぬらっと床に落ちているのが気になるのであって、男性の場合はせいぜい5センチぐらいの髪が床にぱらぱらしていてもあんまり目を引かない。しかもインド人の女性のほとんどが超ロングヘアである。だから、女性用の抜け毛予防シャンプーが10種類も棚に並んでいるのに、男性用のシャンプーはあんまりバラエティがないのである。

インド人女性はみんな「自分は抜け毛が激しい」とカン違いしているのである。日本の女性も同じぐらい抜けているのだろうが、床が茶色のフローリングだったり畳だったりするから気づかないだけなのだ。きっとシャンプーを作っているメーカーの研究者は、一日に抜ける人間の髪の毛の本数ぐらいは知っているだろうが、マーケティング的にそこは目をつぶって、シャンプー開発に努めているに違いない。

私も「うーん、どうもインドに来てから抜け毛が激しいなあ」と思って抜け毛予防シャンプーを買っていた一人である。しかしこの単純な理屈に気づいて、そうかそうか、と思ってちかごろ普通のシャンプーに変えた。思い込みというのは恐ろしい。A+B=Cという単純明快、誰から見ても当たり前に見える事実が実は仮説の一つに過ぎない場合もある。ちょっと突っ込んで考えればわかったのに、ということには、たいていずっと後で気づく。気をつけなきゃいけないなあ、と思いつつ、ついつい素朴理論に頼って毎日をやりすごしているのである。

May 1, 2009

手紙だけの夫婦愛は成り立つか? ―The Japanese Wife

“Japanese Wife” という短編小説集が、インドの本の全国チェーン店CROSSWORDの2008年ベストセラーに入っていたので買ってみた。表題の作品は、映画化されて今年度公開予定らしい。

雑誌の文通欄で知り合ったインド人の男と日本人の女が、一度も会わないまま文通だけで結婚し、手紙だけのやり取りで夫婦生活を送るという、あるいみでは特殊な愛の話だ。とても短い静かな小説である。ラストがなかなか印象的でよかった。

プラトニックな男女の愛が一生終わらず続く、という状態がどういうものなのかあんまり想像がつかないのだが、ひょっとしたら長く結婚生活を送った経験がある人にはわかる世界なのだろうか。それはいったい友情とどう違うのか。なぜわざわざ結婚という形をとってお互いを縛るひつようがあるのか。などと、お話とはわかっていながらいろいろ想像をめぐらしたりして、ついついまたワイドショーの視聴者状態である。

ちょっと飛躍するようだけれど、結論としては、なにをよしとするかは自分にしか分からないものだ。どういうスタイルで生きるかというようなことは、人の意見を聞いてもどうしようもないことであって、誰にどう思われようと思ったように勝手にやるしかない。小説の主人公たちも、「手紙で子どもはできないだろ」などと周りから突っ込まれるのだが、特に気にしない。すると周りもそれを見ていてだんだん、「あ、これもありなのか」と納得してしまうのである。

昔、古い友人が就職活動のときに就職先に迷って電話をかけてきた。職業相談の担当者に、「周りの人のほうがあなたを分かっている。だから古い友人10人に電話をかけて、どの仕事がむいているか意見を聞いてみなさい」と指導されたという。私は大学で職業指導を選考したので、そんなあほなアドバイスをしている担当者はどこのどいつだ、とびっくりしてしまった記憶がある。

この人と結婚して大丈夫だろうか、この仕事を選んで後悔しないだろうか、などと聞かれたって答えようがない。決断が「正しい」かどうかがポイントではないからだ。私たちは何もウルトラクイズをやっているのではない。

これで自分がハッピーになれるはずがない、とすっかり分かっていながらも選ばざるを得ない道もけっこうある。結局のところ、AからC、どのドアに飛び込んでも地獄である。粉まみれでも、水びたしでも、泥沼でも、どれにしても難儀なわけなら、まあ選んだ瞬間に楽しいものに行ったらいいんじゃないかと思う。あとのことは分からない。