September 29, 2009

大事なのは男女の愛か? -インドにおける結婚の価値観

先週の日曜日に、会社の上司の結婚式に出席した。一緒に行った同僚は、「これはいわゆるボリウッド式ね」と言っていた。会場は有名なお寺の結婚式場で、一応30分ほどヒンドゥ教のプジャが行われたが、かなり短い。その後カンタンなブッフェスタイルの食事。小ぢんまりして簡略化された現代的な式で、どちらの家族も特に宗教や伝統にはさほどかまってない、という印象である。

とはいえ、それが現代のインドのスタンダードかといえば、そうでもない。インドには日本にあるようなスタンダードや流行なんてない。それぞれの家族によって、保守的であるか進歩的であるかは家庭や個人によってぜんぜん違う。ある家庭では1週間以上かけて伝統的な結婚の儀式を行う。またある家庭では同じカーストであってさえ、生まれたコミュニティや細かい条件の違いで結婚を反故にする。そして、全く宗教に関係なく結婚するカップルや、結婚式に宗教色を入れないカップルもいるらしい。

インドにおいて、結婚はかなり不自由である。必ずしも愛し合っている恋人と一緒になれるわけではない。実際かなり難しい場合が多い。しかし、そういう宗教や文化によって生じる困難を後進的だと判断するのは単純すぎる。アレンジド・マリッジで幸せに一生を送るカップルはいっぱいいる。家族全員の幸せが一人の幸せであるという価値観に立てば、たった2人の愛し合う男女の幸福は、より公共の利益のために犠牲になる、という考え方だって別に間違ってはいない。

価値は相対的なのだ。正しい価値と誤った価値を見分ける方法もなければ、どの価値がより重要であるかを測るものさしもない。問題は価値そのものにあるのではなく、周りの圧力や無知によって価値を選べないことにある。たいていの人間は、自分が叩き込まれてきた価値観や、苦労して築き上げてきた価値観を世界で一番まともな考え方だと思いがちである。人間は伝統や文化のしばりから自由であればあるほど、それが人間のあるべき姿であり、幸福により近づく、と考えがちだが、実はそうとはかぎらない。

日本では最近「婚活」なんていう、聞くだけで疲れる言葉がはやっているらしいが、ラブ・マリッジの率が高くなればなるほど、結婚したいのに相手が見つからない若い男女があふれて困っているではないか。こういう報道を見ていると、あんまり日本も自由な国じゃないな、という気がする。

しかし、日本のいわゆる「婚活」現象は実に奇妙である。若い人たちは「別に結婚しなくてもよい」という自由を享受しているのにもかかわらず、結婚することをいまだに目標にしている。ヨーロッパのカップルみたいに、結婚しないままパートナーとして何年も連れ添って暮らしたり、気が向いたら子どもを作ったりして好きなようにのんびりやったらいいのに、なぜ日本人はそういう方向に向かわないのだろう?なにをやったって自由なんだから、もっと勝手にすればいいのに、意外とそういうのんきな世代が現れないのが実に不思議である。

そんなところを比較していると、自分の中の進歩と保守、あるいは後進という価値観の境界がどんどんあいまいになる。実にわからない。私個人としては、愛し合うカップルは自由に一緒になれなきゃ嫌だけれど、男女の愛を一番に追求して生きているわけではない人たちだって、世の中にはいっぱいいるのだ。

最近、ジュエリーショップのテレビCMで、こんなのがやっている。結婚1年と2ヶ月目の夫婦。「They arranged everything…」でストーリーは始まる。お見合い結婚で結ばれた二人。知らない同士が結婚してぎこちない結婚生活。それから、「And, we laugh…」、ちょっとずつ相手に慣れていく。そして1年2ヶ月目。「And we found…」お互いをはじめて見つけた二人。記念のプラチナ・ペアリング。これがインドの夫婦に指輪を売りつけるためのメッセージらしい。なかなか興味深いと思いませんか?

September 25, 2009

有機アパート

ムンバイにあるうちのアパートには、この季節になるとどういうわけかみのむしが発生する。長さが1センチから2センチぐらい、幅が2、3ミリのかなり小さなみのむしで、よく見ないとただのほこりの塊にしかみえない。これが、白い漆喰の壁にぽつぽつとついていてなかなか不気味である。

私は虫が大の苦手なのだが、みのむしは小さいながらも自分で家も構えているし、特に動きもしないで壁に引っ付いているだけなので、まあそういうことならご自由に、というかんじで見逃してやっている。何日も朝から晩まで壁に引っ付いたまままったく動く気配がなく、どういうつもりで生きているのか謎だし、どこで食物を手に入れているのか、男女がどこで出会って繁殖しているのか不思議であるが、それは私には関係がない。まあ大して関心もないといっていい。

最近、ヤモリもどういうわけか大発生している。家にいてボーっとしていると、しょっちゅうヤモリと目が合う。3センチぐらいの生まれたばっかりのから、7センチぐらいの大きなやつまでいるから、一応家の中で繁殖しているに違いない。ヤモリは爬虫類だから、どこかに卵を産んでいるはずなのだが、一度も発見したことはない。あるいは外の草むらで繁殖して、亀みたいに生まれてすぐ7階までどんどんのぼってくるのかもしれない。

ゴキブリとネズミ、ハトについては言わずもがなである。このムンバイの3大嫌われ者たちは、勝手に外で生きていれば別にこっちも文句は言わないのだが、人間の生活空間にどんどん入ってきて荒らすわけだから、こっちとしては懲罰して当然である。この点カラスや野良犬は自立して暮らしているので、私としては特に文句を言う筋合いではない。

ハトに関しては、部屋の窓を開けておくとどんどん飛び込んでくるので非常に困る。日曜なんかに窓を開けて昼寝をしていると、ハトがカーテンを突き抜けて飛び込んできて、自分で飛び込んだくせに大パニックに陥る。別に静かに入ってきて、「あ、すいません」と言って出て行ってくれるのならこっちとしても別に「あ、そう」と言って済ませられるものを、こっちが悪いみたいに大騒ぎしてい部屋中を飛び回るもんだからかなり迷惑である。

一度は窓を閉めわすれて出かけて、家に帰ってくると、2匹のハトが並んで私の布団の上で寝ていたことがあった。これらのハトは、2匹いたから心強かったのか知らないが妙に落ち着いており、私がドアを開けると、「あ、帰ってきちゃったね」、「ね」、みたいなかんじで顔を見合わせて、特に騒ぎもせずに歩いて窓から出て行った。奇妙な二人組みであった。

かわいい生き物がぜんぜんいない、というのがムンバイの特徴のひとつだ。しかし虫であれ、鳥であれ、動物であれ、共生できるか否かの境界線は、互いの物理的、心理的なパーソナルスペースをどれだけ侵さずにやっていけるかというところだろう。ゴキブリだって、あんなに速く歩きまわって人を驚かせなければさほど嫌われることはなかったに違いない。他者とはそういうものである。

一方で、自分の好きな対象や相手については話はまったく逆である。呼んでも絶対そばに来ないような猫は飼っていても悲しいだけである。誰に、どれだけ近づいてほしいか、自分の生活を邪魔しちゃってほしい物事や相手はだれか。そういう自分のごく生理的な反応に実はすべての答えがあるのだ。

September 17, 2009

インド話は尽きない

最近、以前のルームメイトであるたまこが人類学の調査でVashiの街に滞在している。久しぶりに会って話していてまた改めて、インドに住んでいると、インドについて語るべきことは永遠に出てきてぜんぜん果てがないと感じている。たぶんすんなり理解できない文化がたくさんありすぎるからだろう。

どんなにこちらでの生活に慣れても、ムンバイの生活にはなんだかよく事情がわからないことばかりである。言葉が不自由なので、文脈からその場の状況を推測する特殊な能力がかなりついてきたけれど、やはり社会の不文律や言葉にされない社会的事情の細部がよくわからない。日本では起こらないようなことが日常茶飯事のほうに起こるし、その解決のプロセスもあまりにもちがう。気になることがありすぎて、誰と話し始めてもインド談義は延々と終わることがない。

面白いことに、これは外国人だけの傾向ではない。インド人もまた、インドについて語りだすと果てなく話し続ける。自分の家庭の伝統や風習について語り、その風習が同一宗教内の他のミュニティとどんなふうに違うかについて語り、インドのスピリチュアリティについて語り、ビジネスについて語り、政治について語り、家庭で話されている複数の言語と先祖の起源について語る。彼らもまた、自分たちの細分化された文化の多様性に興味津々であり、語ることで日々自己発見をしているようにうかがえる。

意外というべきか、当然というべきか、ヒンドゥ教徒のインド人は隣人であるイスラム、シーク、キリスト教の文化についてほとんどといって語らない。他の宗教に属するインド人も同様である。例え隣どうしに住んでいても、彼らはお互いに文化を共有しておらず、あまり自分以外の宗教についてよく知らないし、強い関心もないようである。少なくとも私は周りの人からそんな印象をうける。さまざまな種類の宗教や文化が並列して存在しながら、混ざり合っていない。インドの文化は水質性ではなく、固体性なのである。一緒にまぜても、コーヒーと牛乳のようにカフェオレ色にならない。赤い小豆と白い大豆を混ぜたみたいに、個々の色と形状はそのままに残っている。

「わかった」と言えるときが、誰にとってもおそらくずっと来ないのがインドであろうと思う。永久に話し続けられるし、永久に書き続けられる。人はその文化を混沌と形容する。私はいつも生活の視点からしかインドを見ていないが、どんな角度からでも、高みからでも底辺からでも、切り口は無限にあって、ほんとうに果てしない。インド人でも外国人でも、人がそれぞれの立場から語るインドには、新しい定義と魅力がある。

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September 16, 2009

みんな、ブログを更新しよう

うちの会社でインターンシップを終えてインドから日本に帰った若者たちは、みんな急に自分のブログを更新しなくなって、私はとても寂しい。みんな・・・、頼むよ。見回りをするブログの数が減って悲しいので、「なんならわたしのブログを読みますか?」とおっしゃってくれる親切な方はぜひリンクを送ってください。

ブログのなにが楽しいかって、他人ががなにを考えているのかをリアルタイムで追えるところだ。「あの人、最近どんなこと考えてるんだろう?」と思って誰かのブログを開く。いろんな事件が起こっていたり、意外な事を考えていたり、前と逆のことを書いていたり、くだらない自慢話をしていたり、落ち込んでいたり、生きているその人の人生が垣間見えて面白い。だから、どんなに短くても意味のない話でも、ブログは更新することに最大の意義があるのであって、中身はその次にくればいい、と私は思う。

このブログをときどき読んでくれている友達が以前、「普通に友達づきあいしてたら、友達がなにを考えているのかここまでわからないよね」と言っていた。書いている自分もまた、自分がなにを考えているのか、どんな風にものを考えるのか、日々文章にしていなければここまでわからない。どんな短い文章にもなにかしら結論が必要だから、書き始めちゃったら考えて答えを出すしかないわけで、そのプレッシャーが日々の考えを深めていく。いわば思考のペースメーカーとしてブログが役に立っている。

私がブログを書くときには、子どものころに学校の先生か誰かに習った「作文はあったことを書くんじゃなくて、考えたことを書きなさい」という教えに純粋にしたがっている。「考えたことを伝える」という目的で書いていると、自分の生活や人間関係を必要以上に暴露しなくてすむから、単純に書きやすいのだ。理論と実践がいつも一致するわけではないように、自分が考えたことと自分自身とは必ずしも同一ではない。一方で、考えを人に披露することで、自分の行動が影響を受けて自然と正される。そうやって、自分の文章につられて自分そのものもまた襟を正して、いい方向に変化していけたらいい。

今年からややハードルを上げるために、本名でブログを書き始めた。せっかく一生懸命書いているんだから、いつかは、初めて会った人に、「私について興味がありましたら、とりあえずブログをご覧下さい」とURLを差し出せるブログにできたらいいと思うのだが、先は長い。

September 10, 2009

ストイックな男の人生 山崎豊子「沈まぬ太陽」

山崎豊子の「沈まぬ太陽」を読み始めてそろそろ3週間目になる。以前会社にいたインターンの青年が日本に帰るときに置いていったのを借りて読んでいるのだ。かなり面白い。

日本にいるときは、企業ドラマなんておっさんばっかり出てくるし登場人物は多いしポリティクスやらなんやらいちいち理解するのが面倒くさいからキライ、と思って読んだことがなかったのだが、「ドラマ 華麗なる一族」は面白かったし、読んでない日本語の本がもう残ってないという差し迫った理由もあり、読み始めたら止まらなくなって朝ごはんの時間まで本を広げている。全5巻だからなかなか読み応えがある。

ストーリーを簡単に解説すると、主人公の恩地は、官から民に移行しつつある巨大な航空会社「国民航空」の社員で、優秀さを買われて労組の委員長に任命される。正義感が強く実直な彼は、「空の安全」を守るために、社員の労働環境を改善しようと死力を尽くすが、その結果、会社はその存在を疎んじて「アカ」のレッテルを貼って迫害し、懲罰人事で海外の僻地をたらいまわしにする。飛行機事故を契機に、半官営の汚れきった大企業と、それを変えようと戦うストイックな組合員たちのドラマ、というような話です。

主人公の恩地さんは、スーパーストイック男である。そんなひどい仕打ちを受けて出世の見込みもないような会社さっさとやめたらいいのに、戦っている他の組合員たちのために耐えて耐えて耐え続ける。それでいて、その苦しみのなかでも心だけは澄んでいる。アフリカやらパキスタンやらにぼんぼん飛ばされて孤独な単身赴任の生活のなかでも、美女に情熱的に迫られても決して興味を示さない。まさに女の書く男、という感じの主人公である。

こんな男は世の中にはいないか、いたら頭のおかしい人である。表で極度に「倫理的」な人間は、裏ではかなり性格破綻しているというセオリーを私は信用している。なんだかごつごつして妙なこだわりがあったり、「あ、ヘン」と見てわかる人のほうが付き合ってみるとまともなものである。だが、これは小説だからいいのだ。恩地さんはストイックだけれど変態ではない男なのである。

世の中には、「本当は周りがおかしいのに、自分がおかしいと見られてしまってる」という悲惨な状況に立たされている人はたくさんいるはずである。「周り」が大多数で、力がある場合には、そちらが単純に正義になり、声を上げている個人は迫害される。そんなケースは大なり小なりごろごろしている。経験したものにしかその恐怖はわからない。一度もそんな経験をしたことがない、という人がいたら、それは自分が常に「周り」の側にいただけの話である。

そういう人数や力による迫害のまっただなかにいる人には、ストレートに、励みになる物語だろうと思う。秋の夜長にはおすすめです。

September 8, 2009

「愛」についてのそれていく話

今週はすさまじい量の仕事に追われて気持ちが殺伐としているので、愛についてつれづれなるままに語ろうと思う。

マラティ語で「アイ」は「お母さん」という意味なんだそうだ。だからムンバイに住んでいて自分の名前を言うと、「え?」という顔をされることが非常にひんぱんにある。家族連れがいっぱいのショッピングモールの食堂なんかでごはんを食べていると、子どもが「アイー」とおかあさんを呼ぶ声がいろんなところから聞こえてきて、いちいち振り返ってしまう。

インドのオフィスでは英語が公用語なのだが、「Ai」 は 「I am」 の「I (私)」 と発音が同じなので、時々混乱を生じる。例えば仕事の打ち合わせをしていて、「アイ ウィル ドゥ ザット」 と誰かが言ったとき、Aiがやりますよ、といいたいのか、自分がやります、と言いたいのかがとっさにわからない。そのため、混乱を避けるために「Ai Kanoh will do that.」 とフルネームで言われることがしばしばである。「アイカノウ、ランチもう食べた?」とか聞かれるとかなり違和感があるものの、まあ仕方ないから我慢している。

谷川俊太郎さんの詩にこんなのがある。

悲しみは むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこにある むきかけのりんご

感情はその場限り、対象に宿る。悲しみだけでなく、愛も同じだ。ひざの上の猫や、流しに立てかけられたぬれたままの食器や、朝のさめた湯たんぽや、書いたけど出さないままの手紙や、そういうもの、それそのものの中にあるわけで、だから優しい言葉や態度や、愛を表現するための特別な媒介はいちいち必要ないといってもいい。感受性さえあれば。

人間の感受性はとても偏っているので、たとえば机に置きっぱなしになったコーヒーカップ一つを見ても、そこに悲しみを見る人もいれば愛を見る人もいる。恋人のぶっきらぼうを無関心と取るか、信頼と取るかも、その人、そのときによって変わる。もしそれがある程度自分の心がけしだいでコントロールできるものなら、愛とか、なるべくよきものをいつもそこに見ていたい。

教師が一途に信頼することによって生徒を成長させるように、意外なことに、対象になにを見出すかによってその対象そのものが現実に姿を変えていく。だからせめて自分からの視線は常にあたたかいものにして、そういうソフトな方法で物事を変化させていけたらいい。

という、それつづける愛についての話であった。