July 28, 2008

忘れ物を取りにいく

雨季になってからの2ヶ月で、傘を3本買った。だらしない性格なので、すぐに物をなくす。昨日も実はテーラーに傘を忘れかけて、雨がぽつぽつ降ってきたおかげで気がついて歩いて戻った。あの、傘を忘れたことに気づいて戻るとき「・・・戻るか。」と決断するときの悔しさといったらない。自分にあたるしかない。いらいらしそうな自分をなだめて呼吸を整えながら、来た道を振り返る姿は果敢である。

最近、キャッシュカードの暗証番号を自分が覚えていないことに気づいた。しばらくキャッシュカードを使わなかったから、暗証番号を忘れてしまったのである。昔銀行から届いた手紙を確認してその番号を押したが、エラーになってしまった。ということは、自分は暗唱番号を変えたのだろうか。しかし変えたかどうかすら覚えていない。そもそもどうしてしばらくキャッシュカードを使ってなかったかというと、キャッシュカードをなくして、再発行するのに3ヶ月もかかったからで、その間チェックでお金を大量におろしてあったので、カードを使うあてがなかったのである。「どうして私ってこうなんだろう?」と今までの人生でもう10万回は唱えた文言を唱えて、しぶしぶ銀行に電話をかけている毎日である。どういうわけかつながらないので困っている。

高校時代にエッセーの課題があり、「私はだらしない。しかしこれは生まれつきのようで、何度直そうとしても直らないのであきらめようと思う」という内容の文を書いたら、先生の評価に「誰でも気をつければ直せるから直しなさい」と加えられていた。そうなのだろうか。いまだにそれがわからない。しかし、少なくとも、息をしずかに飲み込んで、自分のした失敗の後処理をすることにはだんだん慣れてきたように思う。別にだからどうということはないが、ポジティヴに考えればある部分は成長しているといって差し支えないと思う。

「自分を知ることが大事だ」と百万人の立派な人が言っているが、自分を知るといいことのひとつは、自分のアホさ加減に気づいてしまったら、もう簡単に人の非難なんかできなくなることである。一生懸命生きているのに、それでもこれだけ欠落がある自分の状態を思うと、人に立派さを求めるのはフェアではない。一方で、自分以外の人はせめて自分よりまともであって欲しい、と思わないでもないが、それはわがままというものだろう。


毎日非常にくだらないことのために時間と労力を費やして生きている。もっとずっと若いころは、そういう自分に我慢が出来なかったが、最近はもう仕方ないやとすこしは思うようになった。「忘れ物を取りに行く」という行為が自分の人生の時間の、あるいは6分の1を占めていたとしても、まあ黙って取りに戻るしかない。一見くだらないと思える時間と、貴重なことをしていると思える時間の区別がだんだんつかなくなってくる。まあいいか、という気がしてくる。

July 25, 2008

結婚の習慣

最近、職場の何人かが婚約したり結婚したりしている。婚約した一人は私とすごーく密に働いているウェブデザイナーの女の子で、結婚した一人は同じくウェブのマネージャーをしている人。

ウェブデザイナーの彼女は、ある週に急に休みをとってしばらくいないなーと思ったら戻ってきて、「なにやってたの?」と聞いたら、「婚約した」と言われてびっくり。本人も自分が婚約するとは知らなかったというから、さらにびっくりである。彼女によると、彼女のコミュニティでは占星術で相性の会う相手を両親がまず選んで、そのあと両者をあわせて気に入るかどうか確認するのだそうです。すごい。これはヒンドゥ教の人たちの中ではわりと行われている習慣だということです。

一方、キリスト教徒の女の子に聞いてみると、彼女はインターネットのお見合いサイトで探したかなりの人数の人とお見合いをしてみて、自分と同じ故郷出身で、同じ宗教で、いますぐ結婚したい人をがんばって見つけたと言っていた。なかなか大変だ。宗教や食べ物といった条件が人によってかなりちがうので、ランダムに恋愛をして結婚相手を見つけるのはなかなか難しいのである。悲恋の話もよく聞く。宗教に関係なく結婚している人たちも、もちろん存在する。

お見合い結婚している人たちは、ホントのところはどうなのか知らないにしても、みんな幸せそうにしている。婚約した彼女もすごく嬉しそうである。結婚に対する認識は、場所や宗教、家族や個人によって本当にそれぞれだ。もちろん恋愛結婚の割合も増えているそうだが、増えているといっても少数派である。

基本的に統一されたルールがないので、この人はこのルールで生きているけど、あっちの人はちがったルールで生きている、という状態が、オフィス内で繰り広げられている。自分が掲げているルールや習慣もそのひとつに過ぎない、と思う。

July 19, 2008

No Sorry, No Thank You

日曜日に一人で映画を観にいった。「Jaane Tu Ya Jaane Na」 というヒンディ映画で、若い大学生6人グループの友情と恋愛といった内容だ。インドの有名俳優アミール・カーン(Amir Khan)が監督した映画で、おしゃれ、さわやか、ハッピー、だけどちょっと複雑な心理描写もあり、という素敵な映画。主人公のジェイ役、イムラン・カーン(Imran Khan)ハリーポッター役をやっている男の子にそっくりでなかなかかわいかったです。

ところで、私はヒンディ語がさっぱりわからない。映画の中で唯一わかったのは「クッチュ・ナヒン・ヘ(なんでもない)」だけだった。最近はもう慣れてしまったので、言葉がわからなくても映画が楽しめるようになった。想像力で観るのです。文脈と表情と語調で大体何が起こっているのかを想像しながら観る。時々英語でしゃべってくれるから大体それで何を話しているのかわかることもあります。

ただし、ストーリーの大筋はわかっても、やっぱり細部はわからないので悔しい。それで休憩時間に隣に座っていた女の子に「ちょっとちょっと」と頼んでわからなかったところを教えてもらうことにした。主人公のお母さんが児童福祉の仕事についている、とか、誰が仲良しグループに後から入ったとか、細かい設定を親切に教えてくれた。これは非常によい体験でした。

インドで外国人として暮らしていたら、困ったら人にとりあえず聞こう、できなかったら頼もう、という生き方がけっこう習慣化してきた。よくインドのガイドブックには、「インド人に道を聞くと、だいたい間違った情報を教えられる」と書かれているけれど、これは自分が少しでも知っていることをとりあえず教えてあげよう、という親切心の結果なのだ、と陽子は言う。私もその説を信じている。「知らない」と言う代わりに「多分、あっちのほうだったと思うから、ちょっと行ってみなよ」と言うわけだ。町の誰をつかまえても、だいたいは親切に助けてくれる。困った表情をしているだけでも向こうから声をかけてきて「手伝おうか?」と聞かれることもある。

ヒンディ語では「ありがとう」と「ごめん」があまり使われないが、それは人に頼んだり手伝ったりといったことが当たり前のこととして行われている社会だからだ、というのもインドで暮らし始めたころに陽子に教わったことだが、実際、これも正しかった。それをRudeと考えるのはちょっとちがう。人によって違うけれど、私の場合はそれに慣れることで、ずいぶん楽に暮らしている。ちょっと人生観が変わったといってもいいくらいだ。「ありがとう」といちいちいうことで、そこにあったはずの共感や協力精神みたいなものを切り捨てて、気づかずに人との距離をとってしまうことだってあるのだ。

もうちょっと厳密に説明すると、お礼を言うことで、人はそこで起こっていた出来事を「自分のために起こったこと」にしてしまうのである。感謝されるのは嬉しいことだが、お礼を言われた瞬間に、言われたほうは「ああ、自分はその内側にいたわけじゃなかったのか」と気づかされる。協力して仕事をしていたはずの人に、「手伝ってくれてありがとう」と最後に言われて拍子抜けするのと同じ感覚である。

日本はカタ(形式)を美とみなす文化を持っている。私自身は田舎の、とくに生活におけるカタを重視する土地に育っているため、あいさつや礼儀を見せる、という習慣を、みっちりと暮らしの中で教えられてきた。前にも書いたかもしれないが、私は教わったことに過剰適応するたちなので、「他人に迷惑をかけること」を最も気にかけて生きてきたような気さえする。しかしインドでの暮らしの中には、日本であんなにはっきり見えていた「他人」と「身内」との境界線が見えない。「他人に迷惑をかける」ということはどういうことなのか、ここではもうよくわからないぐらいである。あの境界線を見つめてひたひたと孤独を感じて暮らしている人は、日本を出ることをおすすめします。

そんなわけで、出かけるときにはろくに地図も持たず、たった1時間の行程に5人も6人も道行く人に声をかけて、知らない人と肩を並べて道を歩いている。問題は、こっちはほとんど誰も助けられないということである。

シャー・ルク・カーンの去年の大ヒット映画、「オーム・シャンティ・オーム」の中のセリフに、「友達どうしの間には、ノー・ソーリー、ノー・サンキュー」という素敵なセリフがある。そうだよな、と私も思う。

July 15, 2008

カーマ・スートラ 愛の物語

「Whatever happens, life can never be wrong」

というのは、最近見たインド映画、「Kama Sutra, The story of love」 の最後のせりふである。なかなか素敵な言葉で感心したので、よい格言リストの一番に加えました。そうかー、Life can never be wrongかぁ、そうだ、その通り、と酒の席のおじさんのようにひざを叩きたい。主人公がかなり不幸な身の上の女の子だっただけあって、なかなか説得力がある。

主人公のマヤは召使の身分に生まれて、親友が王様の后になる結婚式の晩に、身分を妬んでいた親友への嫌がらせに王様と一夜を共にする。親友が嫁に行く日に、「あなたは私にいつも古い服をくれたけれど、これからはあなたが一生私のお古を着るのね」というせりふを吐いて、親友を泣かせます。いうなあ。

王様との関係が両親に知れて、マヤは家を追い出されて放浪の身となり、カジュラホでカーマ・スートラを嫁入り前の女の子たちに指導する美人の先生に出会い、恋人もできる。ところがマヤにぞっこんの王様がとうとう彼女の居場所を付きとめ、側室に迎えます。この映画にはすごい処刑シーンが登場して、なんと石の上に乗せた罪人を象に踏み潰させるのです。すごく痛そう。そんなふうに死にたくない。

このマヤ役の女の人はいわゆる美人というのではなく、ちょっとやつれた感じだけれど雰囲気のあるタイプの女優で、ジュリエット・ビノシュをインド人にしたような人。ああ、美人というのと色っぽいというのはちがうんだなー、と思わせる感じの人です。

カーマ・スートラといえばインドの愛の奥義書とかいうので有名なものですが、映画は古いインドを舞台にしたラブストーリーです。インド映画にしてはときどき色っぽいシーンが結構あるけれど、その程度です。問題は、映画を最後まで見ても、カーマスートラっていったい何なのか結局よくわからないということかな。いったい、なんなんだろう?

遅れすぎる電車と、遅れなすぎる電車

駅で切符を買う列に並んでいたときのことだった。長い列だったので、退屈した学生風の青年がうしろから私に話しかけてきて、どこの国から着たのか、と聞く。「当ててみたら」といつものように返すと、彼は中国人かフィリピン人だ、と言った。フィリピン人と間違われたのは初めてである。

青年は続けて、「ぼくはインドなんかより日本に住みたい。インドをどう思うか?」と尋ねた。これもよくある質問である。こういう質問には、郷土愛と母国を憂う(というか批判的な)気持ちがないまぜになっているのがわかる。私はインドに暮らしているほうが日本にいるよりけっこう快適なのだが、ややこしいことを言って「Why」と質問されると返答に困るので、こういうとき単純に「Good!」と親指を上げて答えて話を切り上げようとする。

しかしこのときはいつもと違い、横から別のおっちゃんが口を挟んできて、Goodじゃねえよ、と議論を始めた。「どの国と比べても、インドはひどい。外人はGoodとか言うけど、そんなこと簡単に言うのはよくない」と真剣である。確かに、おじさんのいうことも一理ある。そりゃGoodじゃねえよな、と思って静かに会話から離れた。おじさんは結構貧乏そうだったので、いろいろ苦労があるのだろう。かといって、日本人の幸福度の平均値(そんなものがもし取れたら)をインド人の幸福度と比較しても、決してインド人より高くならないのではないか、と思う。

ひとつましなのは、おじさんは少なくともインドの何が問題なのかをはっきりわかっている、ということである。問題がわかっていれば、それが解決できなくても、少なくとも文句を言うことが出来る。日本では、いったい何が悪くてろくでもない事が起こるのかを突き止めるのが難しいと感じる。例えば、最近陽子がGoaに行くとき、電車が6時間も遅れて駅で待っていた、という話を聞いたけれど、これだったら「怠けないでちゃんと時間通りに走らなきゃ駄目じゃないか」というだけのことである。しかし、日本の電車は死んでも時間を守り、守らなければならないプレッシャーの中でスピードを上げた電車がカーブを曲がりきれずビルに飛び込んだ。何に文句を言っていいのかわからない。ただ、日本の事件や問題を見聞きするとき、いつも「わからない」という不気味な感じがある。


いずれにせよ、インドと日本では社会的な問題の種類が違いすぎて、人に説明しようとしてもできない無力感に陥る。外国人の愛嬌でにっこりわらってかわしつつ、頭は混乱していくばかりである。

想像せよ、しからば叶えられん

ずっと若いころ、「深夜特急」の中で、沢木耕太郎が金子光春が「人間、27歳までに外に出なければならない」といっているのを聞いて旅に出た、という話を読んだ。それで、自分も27歳になったらでかい転機が訪れて思いがけない場所にいるのだろう、とくに根拠もなく信じていた。故郷の田舎町を離れてインドに上京(?)してきたのが28歳になる10日前だったから、気づいてみればその予想は当たっていたわけだ。あるいは、無理やり自分の信念に人生を合わせた、とも言えるかもしれない。

「想像せよ、しからば叶えられん」
というのは、今の会社の前のインド人の上司の格言である。プロジェクトを進めるときに、例えばこのプロジェクトを成功させればお客さんがこんなに来て、電話がじゃんじゃん鳴って、という具体的なピクチャーを頭に描いて仕事をすればそれが現実になるが、そのイメージを持たないで仕事をしていても成功しないというのである。

最初に聞いたときにはあまりにもポジティヴで思わず笑ってしまったけれど、実際、これは人生におけるひとつの真理である。自分が27歳「以内に」インドに来たというエピソードもこの一事例なのだ。頭の中でどんなことをイメージするかが現実の行き先を決めるのである。悪いことが起こると想像していたら、悪いことが本当に起こってしまう、あるいは、直接的間接的に、起こしてしまう。村上春樹は「海辺のカフカ」の中で、「夢の中で責任は始まる」と書いているが、たぶん本当にそうなんだろうと思う。

たとえば、よくある適用例を上げると、なんだか知らないけど何度も似たような恋愛をしてしまうとか、いつも似たような理由で分かれてしまうという人なんかは、案外付き合い始めた時点で同じような結末を頭に描いてしまっているのではないか。「彼が浮気して、最後自分が見捨てられる」というイメージを自然ともっているは、そのイメージが現実の関係に響いているんじゃなかろうか。

とりあえず、まだ起こっていない悪いことを想像して憂鬱になって部屋にこもってしまうタイプの人は、想像力のベクトルを変えてみたほうがいいかもしれない。と、人に言うようにして自分に言い聞かせている毎日である。

July 8, 2008

泣け、シャー・ルク・カーンとともに

シャー・ルク・カーン(Shah Lukh Khan)がわりと好きである。シャー・ルクといわれてもわからない人に説明すると、彼はインドで超有名なボリウッド俳優です。

顔は香港俳優ジャッキー・チェンにやや似ていて、てかてかむきむきボディ、織田裕二を舞台俳優にしたような演技が彼の特長である。貧乏だけど心根が優しくピュア、家族や恋人の危機にはぶるぶる震えながら涙し、それとはいたって無関係に半裸セクシーシーンを繰り広げる、というのが私が見たいくつかの映画において大体共通する彼の役どころであった。実際、シャー・ルクは他の俳優に比べてさほどハンサムではない。しかし、いってみればチャーミングで、見ているとだんだんその愛嬌が心に染み入ってきて、「ああ、シャー・ルク・カーン、結構かわいいかもな」という感じになってくる。

最近見たシャー・ルクのよかった映画は「Devdas」という悲恋物語で、私はボリウッド映画で初めて泣いてしまった。やや、くやしいような、そんな気分。どんな映画でもよく泣くほうだけれど、ボリウッド映画はダンスシーン満載のせいか、あるいはあまりにもコンテクストと無関係なシーンに気を取られるためか、あんまり情緒的になる瞬間がない。でもこれはよかったです。ストーリーも音楽も美術もよくて、懐古的な気分になる映画でした。


ヒロインはこれもまたボリウッド一の(?)人気美人女優、アイシュワイヤ・ライ。初恋の女性パロとの恋に破れたデヴ(シャー・ルク)が、酒で身を持ち崩し、死にかけていく様は見るに耐えないほどかわいそう。シャー・ルクに片思いし、必死に救おうとするが、愛情を拒み続けられる踊り子のチャンドラムキもすごくかわいそう。よよよよよよ。ラストシーンははらはらどきどき、かつ、「そこで終わりますか!」と叫びたくなる素晴らしいラストショット。ちなみに、このチャンドラムキ役の女優は妖艶だけどピュアというかんじの演技がうまくて、この人もまたすごくよかったです。

いつもはシャー・ルクが泣くと、「あ、また泣いちゃったよこの人」という感じで、横目で眺めていたけれど、この映画に関しては、「わかったよ、シャー・ルク。今回は私も泣くわ」とパソコン画面につぶやきながら観た私。最初は異文化的に面白がっていたボリウッド映画が、だんだん自分のスタンダードになっていく。いいんだか、わるいんだか、しらないけど。