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October 22, 2009

ブログを引っ越しました

本日よりブログを引越ししました。新しいURLはhttp://aikanoh.wordpress.com/です。

これまでこのブログと英語版のブログを別々で管理していたんですが、まとめるついでに新しいブログサービスに乗り換えました。これからのポストは新ブログ上でアップデートしますので、よかったら訪問してください。英語版と日本語版のポストは、できれば交互に(多分日本語ポストの割合が圧倒的に高くなるとは思いますが)アップする予定です。英語が嫌いな人は読み飛ばして、日本語のほうだけときどき追っていただければ大変うれしいです。

お手数をおかけしますが、もしリンクを張っていただいている方がいらっしゃいましたら、URLの変更をぜひよろしくお願いします。では新ブログに飛んでください。向こうでお待ちしています。

http://aikanoh.wordpress.com/

October 12, 2009

3年目のディワリ

<お知らせ>
ブログを引越ししました。新しいURLはhttp://aikanoh.wordpress.com/です。英語ブログと日本語ブログを合体させたブログです。これからのポストは新ブログ上でアップデートしますので、よかったら訪問してください。よろしくおねがいします。
<お知らせ終わり>


ムンバイの町で迎える、3度目のディワリである。9月の終わりにナブラトリの祭りが始まり、それと同時に北インドの行商人が集まるクラフトフェアがやってきて、去年と同じ顔ぶれの商人が手織りの布や家具を売り、お祭りの終わりとともに去っていった。ナブラトリが終わるとすぐに街中がディワリ一色になる。ディワリは光の祭である。電飾が街中に施されて、歩道に灯篭やランタン、ろうそくや、ランゴリのための色鮮やかな粉を売る店がたくさん現れはじめる。

ディワリには、他のヒンドゥ教の祭とは違う落ち着きと親密さがある。ホーリーのような狂乱でもなければ、ガネーシャ祭のような遊び心でもない。ガネーシャ祭がお盆なら、ディワリは正月である。新年の夜の神社の灯篭の光や焚き火を思い出して、2年も日本の正月を見ていない私はいつもこの時期になると懐かしさに駆られる。

去年のディワリには、親しい人たちが立て続けに街を離れたこともあって、残った自分がいつ同じようにここを去るのかと思うと、祭の準備に忙しい街の様子がまるで未来に見る思い出の光景のように思えた。それから1年たち、今年はまた違った種類の感慨で街の風景を見つめている。自分が見つけた、自分の街にいる、という思いがしている。なんだか「魔女の宅急便」みたいだ。

なじみの店ができ、付き合いができ、路地裏の小さな露店まで町の地図が頭に書き込まれ、以前はいちいち動揺して人に助けを求めていたトラブルや問題が、当たり前の日常になりつつある。どこに甘えていいのか、何に警戒するべきなのか、力の入れ加減が体に刻み込まれていって、少しずつ楽になった。もう詳しくは覚えていないが、何度も何度も失敗したり、小さな詐欺や危ない目にあったり、そういう経験を単純に層にして、この街の記憶の塊のようなものの実がぎっしり詰まってきた感じがする。

どこにいようと人は変わらないし、変わらない限りどこにいて何をやっても同じだと言う人もいる。しかし、人は土地によってある程度変わることができると私は思う。その人の心が柔軟でさえあれば。新しい土地には、人を謙虚にし、目を開かせる力がある。わからないという気持ちが、注意を集中して、自分の思考の枠組みの外にあるものをそのままの姿でとらえようとする態度を作り出す。そうして外にあるものを素直に自分に組み込んでいくことで、ちゃんと人格にも変化が起こり、成長する。

街の記憶が密になることによって、自分の実もまたがっしりしていくような気がするのかもしれない。そのうちまた空っぽになりたくて自分はどこかに行くのだろうか。振り捨てなければならない辛い記憶もまた同じだけ増えて、密度を増していくのだろうか。それもまたいい。いつか新しい土地を求める時のために、あるいはいつか逃げ出してどこかに行かなければならない時のために、とにかくずっと、心だけは死ぬまでやわらかいままでいたいものだ。そうしたら、どこでも何とかなる。

メンディ地獄

ディワリの準備でうきうきした街を歩いていたら、メンディの露店に出会った。メンディというのは、インドの女の人のおしゃれのひとつで、ヘナという染料で腕や足に模様を描くのである。ヘナは茶色い泥のような染料で、髪染めにも用いられる。肌にヘナの泥でケーキのデコレーションのように模様を描いて、乾かしてから泥をはがすと、肌が模様の通りに赤茶色に染まるのである。見た目は刺青のようにみえるけれど、1週間もすると消えてしまう。

ま、お祭だしね、と思って椅子に座ると、アーティストのお兄さんが、「片手?両手?」と聞いたので、「もちろん、両手、両面、全部おねがいねっ」と景気よくお願いした。以前会社のめぐみさんとはじめてメンディをやった時には手の甲の面にだけ模様を施したのだが、会社でインド人の女の子たちに見せたら、「手のひらもやんないとかっこわるいじゃん」と言われて悔しかったので、次の機会にはちゃんと両手両面をやろうと決めていたのである。

アーティストのお兄ちゃんは若く、仕事は速いがわりと雑であった。片手が終わった時、なにかヒンディ語で私に訴えかけてきたので、「何?」とこっちも一生懸命聞いていたのだが何を言っているのかわからない。しばらくやり取りがあって、どうやら「残りの手をやる前に代金を払ってくれないと、手が使えなくなって財布がかばんから出せなくなるから、今払え」と言っているのだとわかった。「ああ、それもそうだね」といって代金を払いながら、自分の置かれた状況に気付いてはっとした。考えてみれば兄ちゃんの言うとおりで、両手の裏と表に、それも指の先っちょまでヘナで模様を描かれてしまったら、ヘナが乾燥するまでの1時間、まったく何もできなくなる。

リキシャで家まで帰って財布から代金を払うこともできなければ、鍵をかばんから出して家のドアを開けることもできない。お腹が強烈にすいているのに気付いたが、道の露店でサモサや果物を買って食べるのも無理だし、家に帰って運よくルームメイトがなにか作っていたとしても、箸すら持てない。家までは時間をかければ歩いて帰られるとしても、ルームメイトがいなかったらどうしたらいいのか。携帯で電話をかけるのも無理だ。

私がぐるぐる考えている間に、お客が何度か立ち寄ってメンディの値段を聞いたり染料を買ったりしていった。家族で買い物途中の主婦や、夫とデート中の若い妻が「両手両面おねがい」と言っているのを聞きながら、ああ、この人たちは家族がいるからそんな気楽なことが言えるんだよな、ちくちょう、と恨めしい気持ちになった。家族連れならメンディの後にレストランにさえ入っちゃって、夫か姑かなんかがチャパティを小さくちぎってかいがいしく口に入れてくれるに違いない。うらやましい。

メンディ・アーティストが私の仕事を終え、両手の裏と表がヘナの模様でいっぱいになった。ありがとう、とお礼を言って店を出ようとすると、お兄さんが模様を崩さないようにそーっと私のショルダーバッグを肩にかけてくれ、「手のひらを広げてつっぱって、乾くまで模様にしわが入らないようにしないとだめだよ」と注意した。そうか、手のひらを広げて錆びたブリキのロボットみたいな状態でこのまま家まで40分近く歩かなきゃならないのか、と思うと複雑な思いでいっぱいになった。

手を硬直させて人がいっぱいの歩道を歩いていると、周りの人がよけてくれているのがわかってなかなか恥ずかしい。いつもの角にいる物乞いの女の子がかけてきたが、私の姿をみて「あ、今日はしつこくしちゃだめだな」と判断したのか、一度だけ私に声をかけただけで、私の硬直した両腕を見るとすぐに引き下がって去っていった。賢い子である。長い道のりを一人で歩き、自分のアパートの明かりが見えた時、気が緩んだのか肩から革のショルダーバッグの肩かけの部分が落ちてきて左の手首の模様をつぶしてしまった。

「げげっ」と叫んで模様を救おうとして肩掛けをずらすと、肩掛けについたヘナが左の二の腕にびーっと広がってしまった。大変である。そのまま乾いたら、二の腕に謎の茶色いあざのような模様がどでかく残ってしまって一週間は取れない。「ひょえー」と動揺して叫びながら、思わず右手で左腕を触ってヘナを取ろうとしたら、右手の指先にも模様があったことに気づいた。いろいろな部分を取り繕おうとして、いろいろな部分にヘナがへばりついたりはがれたりして、わけがわからない状態になって大混乱である。

あせって汗をかいて顔に髪がへばりついたが、指にもヘナの模様があるので髪をかきあげられない。誤まって染料が顔についたりしたら最悪である。一瞬パニックになったが、深呼吸をして気を取り直し、ルームメイトが家にいることにかけてダッシュで家まで帰った。染料が完全に乾く前に助けてもらわなければならない。

幸運なことに、ルームメイトはちゃんと家にいて、あわてた私を見てびっくりしていた。布を持ってきて腕についたヘナをはがしてくれ、アイスティーを作ってくれた。手が乾いていないのでアイスティーのグラスを持ち上げられず、あきらめてしばらく一緒にテレビを見た。一時間してヘナが乾いたときには、ほっとしてグラスのアイスティを一気に飲み干し、それから台所にあったジンを飲んで気持ちをおちつけ、ラーメンを作って食べた。もう深夜であった。

インドでひとりで生きるのは容易くない…。次にメンディを両手にやるときには誰かを誘って、ちゃんとご飯を食べてから行こうと心に決めた。でも友達と行って二人とも両手両面にメンディをやったら事態は同じである。やはりその誰かは家族か、男か、どっちかであるべきなのか。いや、友達と買い物の途中で行って、一時間交代でやればいいのか。などなどと、いろいろ思いをめぐらせる。まあ、勢いだけで生きるのではなく、ある程度の計画性は必要である、という戒めかもしれない。

October 7, 2009

ビーフステーキと昔の男

週末にムンバイのダウンタウンにある「インディゴ・カフェ」に行った。客席の半分がリッチな白人で埋まっている、もちろん残りの半分はリッチなインド人で埋まっている高級洋風カフェである。久々に予定のない週末の午後をカフェでビールでも飲みながらのんびり過ごそうと思って街に出たら、ふとなんだかすごく贅沢でおいしいものが食べたくてたまらなくなったのだ。

インディゴ・カフェでものを食べるのははじめてである。店内にはベーカリーがあり、輸入チーズ、ハムとソーセージ、前菜やディップ、キッシュのショーケースが並んでいる。壁一面にはめ込みのワインの棚が備え付けられている。おしゃれなのである。カフェに座りたくて並んでいる人と買い物に来ている人で店内はけっこう混雑している。メニューの値段は普段の私の生活の「まあまあ高級なごはん」の2~3倍ぐらいの値段である。

メニューには、ハムやソーセージの入ったサンドイッチ、ビーフバーガー、チーズフォンデュ、パスタなどいろいろある。普通のカフェじゃん、とインドにきたことがない人は言うかもしれない。しかし想像していただきたい。ポークでできたまともなハムやソーセージ、ましてやビーフなんてムンバイの街角の普通のカフェではめったに出していない。パスタは調理法が普及していないのか、レストランで食べるとたいてい5分ぐらいは茹で過ぎのおじや状態で出てくるし(持ち上げると切れるぐらいやわらかいのだ)、ソースは微妙にインド風なのが普通である。

そんなわけで、値段は高いし失敗はできないと思い、仔細にメニューを検分していたら、ビーフステーキがあるのに気付いた。ビーフステーキ。遠い響きである。考えてみたらビーフステーキなんてもう5年以上は食べていないはずだ。ひょっとすると、大学院1年目の時に家庭教師先のご家族にフランチャイズのステーキハウスに連れて行ってもらって食べた「ガーリックステーキ」が最後かもしれない。7年ぐらい前だ。かなり昔である。思い出をたどっているうちに、これはひょっとして今どうしても食べるべきなんじゃないかという気がしてきた。

私は牛肉がかなり好きなのだが、よく食べていたのはすき焼きやら焼肉、牛丼、カレーなどといった和風の牛肉料理ばかりで、ステーキみたいな食べ物にはあまり愛着がなかった。父親の洋食嫌いのおかげで子供のころにあんまり食べる機会がなかったからかもしれない。あるいは、ステーキという料理そのものが一般的に日常食としてなじまないのかもしれない。牛丼は毎日食べられるけれど、ステーキは毎日は食べられない。このあたりは人によっては異存があるかもしれません。ひょっとしたら夕食は毎日ファミレスのステーキ定食です、という人もわりといるのかもしれない。

ともかくステーキを注文したわけだが、これがものすごくおいしかった。まず焼きたてふわふわのパンとほどよく溶かしたバターがたっぷり届く。このパンがおいしい。ちゃんと卵を使って焼いてあって腰がある。普通のインドのパンはだいたいベジタリアン用に作られているので卵が使われておらず、持ち上げるとぼろぼろに崩れてしまうし、焼くとカリカリになってしまうのだ。パンを食べ終わるころにミディアム・レアに焼いた3センチぐらいの厚さの肉の塊がやってくる。ほろほろになったベイクド・ポテト、オーブンで丸焼きにしたかたまりのにんにくがついて、たっぷりのサワークリームとソースが添えてある。切ると牛肉の荒い繊維から肉汁が出てきてソースと混ざる。よく噛めば噛むほどあまい味が染み出してくる。食べる悦びが湧き出てくるかんじだ。

そうか、ステーキって、牛肉ってこんな風だったな…、と食べながら悦に入っていると、ふと、ステーキを食べる行為は昔付き合って別れたものすごくいい男にずっと後になってばったり再会し、一夜だけ盛り上がった状況にかなり近いのではないかと思いはじめた。別に普段は思い出しもしないんだけれど、ばったり出会ってみたらいまだに昔と同じようにかなりいい男なのである。昔のあれこれの思い出をめぐりながら二人で一瞬だけ盛り上がるのだが、盛り上がった後はもう満足してしまって、じゃあいつかと言って、連絡先も交換せずに別れるのである。うん、似ている。似ているといっても現実にそういう状況にめぐり合ったことは別にない。ただ、私とステーキとの気持ちの交流をたとえて説明すれば、それにかなり近いと言いたいのである。

そんなふうに私はステーキとの邂逅を終えて、満足した幸せな気持ちでカフェを出た。牛肉を食べるといつも「ああ、食べてよかったな」と思う。食べた肉のたんぱく質が吸収されて、体のくたびれた部分をどんどん補修して新しくしてくれるところを想像する。最近、会社の人事の人に呼ばれて、「顔色が悪いし痩せすぎているから毎日卵と牛乳を採って体を作りなさい」と注意を受けた。そんなことまで注意してくれるなんてびっくりするほど親切な人事課である。それをおもいだして、ああ、私の体にはチキンでは血が足りなかったんだ、と納得した。私に不足している栄養素は赤い肉なのだ。そんな理由をあれこれつけて、この先頻繁にステーキとの逢瀬に行くかもしれない自分を想像している。いつかは愛も生まれるかもしれない。

September 29, 2009

大事なのは男女の愛か? -インドにおける結婚の価値観

先週の日曜日に、会社の上司の結婚式に出席した。一緒に行った同僚は、「これはいわゆるボリウッド式ね」と言っていた。会場は有名なお寺の結婚式場で、一応30分ほどヒンドゥ教のプジャが行われたが、かなり短い。その後カンタンなブッフェスタイルの食事。小ぢんまりして簡略化された現代的な式で、どちらの家族も特に宗教や伝統にはさほどかまってない、という印象である。

とはいえ、それが現代のインドのスタンダードかといえば、そうでもない。インドには日本にあるようなスタンダードや流行なんてない。それぞれの家族によって、保守的であるか進歩的であるかは家庭や個人によってぜんぜん違う。ある家庭では1週間以上かけて伝統的な結婚の儀式を行う。またある家庭では同じカーストであってさえ、生まれたコミュニティや細かい条件の違いで結婚を反故にする。そして、全く宗教に関係なく結婚するカップルや、結婚式に宗教色を入れないカップルもいるらしい。

インドにおいて、結婚はかなり不自由である。必ずしも愛し合っている恋人と一緒になれるわけではない。実際かなり難しい場合が多い。しかし、そういう宗教や文化によって生じる困難を後進的だと判断するのは単純すぎる。アレンジド・マリッジで幸せに一生を送るカップルはいっぱいいる。家族全員の幸せが一人の幸せであるという価値観に立てば、たった2人の愛し合う男女の幸福は、より公共の利益のために犠牲になる、という考え方だって別に間違ってはいない。

価値は相対的なのだ。正しい価値と誤った価値を見分ける方法もなければ、どの価値がより重要であるかを測るものさしもない。問題は価値そのものにあるのではなく、周りの圧力や無知によって価値を選べないことにある。たいていの人間は、自分が叩き込まれてきた価値観や、苦労して築き上げてきた価値観を世界で一番まともな考え方だと思いがちである。人間は伝統や文化のしばりから自由であればあるほど、それが人間のあるべき姿であり、幸福により近づく、と考えがちだが、実はそうとはかぎらない。

日本では最近「婚活」なんていう、聞くだけで疲れる言葉がはやっているらしいが、ラブ・マリッジの率が高くなればなるほど、結婚したいのに相手が見つからない若い男女があふれて困っているではないか。こういう報道を見ていると、あんまり日本も自由な国じゃないな、という気がする。

しかし、日本のいわゆる「婚活」現象は実に奇妙である。若い人たちは「別に結婚しなくてもよい」という自由を享受しているのにもかかわらず、結婚することをいまだに目標にしている。ヨーロッパのカップルみたいに、結婚しないままパートナーとして何年も連れ添って暮らしたり、気が向いたら子どもを作ったりして好きなようにのんびりやったらいいのに、なぜ日本人はそういう方向に向かわないのだろう?なにをやったって自由なんだから、もっと勝手にすればいいのに、意外とそういうのんきな世代が現れないのが実に不思議である。

そんなところを比較していると、自分の中の進歩と保守、あるいは後進という価値観の境界がどんどんあいまいになる。実にわからない。私個人としては、愛し合うカップルは自由に一緒になれなきゃ嫌だけれど、男女の愛を一番に追求して生きているわけではない人たちだって、世の中にはいっぱいいるのだ。

最近、ジュエリーショップのテレビCMで、こんなのがやっている。結婚1年と2ヶ月目の夫婦。「They arranged everything…」でストーリーは始まる。お見合い結婚で結ばれた二人。知らない同士が結婚してぎこちない結婚生活。それから、「And, we laugh…」、ちょっとずつ相手に慣れていく。そして1年2ヶ月目。「And we found…」お互いをはじめて見つけた二人。記念のプラチナ・ペアリング。これがインドの夫婦に指輪を売りつけるためのメッセージらしい。なかなか興味深いと思いませんか?

September 25, 2009

有機アパート

ムンバイにあるうちのアパートには、この季節になるとどういうわけかみのむしが発生する。長さが1センチから2センチぐらい、幅が2、3ミリのかなり小さなみのむしで、よく見ないとただのほこりの塊にしかみえない。これが、白い漆喰の壁にぽつぽつとついていてなかなか不気味である。

私は虫が大の苦手なのだが、みのむしは小さいながらも自分で家も構えているし、特に動きもしないで壁に引っ付いているだけなので、まあそういうことならご自由に、というかんじで見逃してやっている。何日も朝から晩まで壁に引っ付いたまままったく動く気配がなく、どういうつもりで生きているのか謎だし、どこで食物を手に入れているのか、男女がどこで出会って繁殖しているのか不思議であるが、それは私には関係がない。まあ大して関心もないといっていい。

最近、ヤモリもどういうわけか大発生している。家にいてボーっとしていると、しょっちゅうヤモリと目が合う。3センチぐらいの生まれたばっかりのから、7センチぐらいの大きなやつまでいるから、一応家の中で繁殖しているに違いない。ヤモリは爬虫類だから、どこかに卵を産んでいるはずなのだが、一度も発見したことはない。あるいは外の草むらで繁殖して、亀みたいに生まれてすぐ7階までどんどんのぼってくるのかもしれない。

ゴキブリとネズミ、ハトについては言わずもがなである。このムンバイの3大嫌われ者たちは、勝手に外で生きていれば別にこっちも文句は言わないのだが、人間の生活空間にどんどん入ってきて荒らすわけだから、こっちとしては懲罰して当然である。この点カラスや野良犬は自立して暮らしているので、私としては特に文句を言う筋合いではない。

ハトに関しては、部屋の窓を開けておくとどんどん飛び込んでくるので非常に困る。日曜なんかに窓を開けて昼寝をしていると、ハトがカーテンを突き抜けて飛び込んできて、自分で飛び込んだくせに大パニックに陥る。別に静かに入ってきて、「あ、すいません」と言って出て行ってくれるのならこっちとしても別に「あ、そう」と言って済ませられるものを、こっちが悪いみたいに大騒ぎしてい部屋中を飛び回るもんだからかなり迷惑である。

一度は窓を閉めわすれて出かけて、家に帰ってくると、2匹のハトが並んで私の布団の上で寝ていたことがあった。これらのハトは、2匹いたから心強かったのか知らないが妙に落ち着いており、私がドアを開けると、「あ、帰ってきちゃったね」、「ね」、みたいなかんじで顔を見合わせて、特に騒ぎもせずに歩いて窓から出て行った。奇妙な二人組みであった。

かわいい生き物がぜんぜんいない、というのがムンバイの特徴のひとつだ。しかし虫であれ、鳥であれ、動物であれ、共生できるか否かの境界線は、互いの物理的、心理的なパーソナルスペースをどれだけ侵さずにやっていけるかというところだろう。ゴキブリだって、あんなに速く歩きまわって人を驚かせなければさほど嫌われることはなかったに違いない。他者とはそういうものである。

一方で、自分の好きな対象や相手については話はまったく逆である。呼んでも絶対そばに来ないような猫は飼っていても悲しいだけである。誰に、どれだけ近づいてほしいか、自分の生活を邪魔しちゃってほしい物事や相手はだれか。そういう自分のごく生理的な反応に実はすべての答えがあるのだ。

September 17, 2009

インド話は尽きない

最近、以前のルームメイトであるたまこが人類学の調査でVashiの街に滞在している。久しぶりに会って話していてまた改めて、インドに住んでいると、インドについて語るべきことは永遠に出てきてぜんぜん果てがないと感じている。たぶんすんなり理解できない文化がたくさんありすぎるからだろう。

どんなにこちらでの生活に慣れても、ムンバイの生活にはなんだかよく事情がわからないことばかりである。言葉が不自由なので、文脈からその場の状況を推測する特殊な能力がかなりついてきたけれど、やはり社会の不文律や言葉にされない社会的事情の細部がよくわからない。日本では起こらないようなことが日常茶飯事のほうに起こるし、その解決のプロセスもあまりにもちがう。気になることがありすぎて、誰と話し始めてもインド談義は延々と終わることがない。

面白いことに、これは外国人だけの傾向ではない。インド人もまた、インドについて語りだすと果てなく話し続ける。自分の家庭の伝統や風習について語り、その風習が同一宗教内の他のミュニティとどんなふうに違うかについて語り、インドのスピリチュアリティについて語り、ビジネスについて語り、政治について語り、家庭で話されている複数の言語と先祖の起源について語る。彼らもまた、自分たちの細分化された文化の多様性に興味津々であり、語ることで日々自己発見をしているようにうかがえる。

意外というべきか、当然というべきか、ヒンドゥ教徒のインド人は隣人であるイスラム、シーク、キリスト教の文化についてほとんどといって語らない。他の宗教に属するインド人も同様である。例え隣どうしに住んでいても、彼らはお互いに文化を共有しておらず、あまり自分以外の宗教についてよく知らないし、強い関心もないようである。少なくとも私は周りの人からそんな印象をうける。さまざまな種類の宗教や文化が並列して存在しながら、混ざり合っていない。インドの文化は水質性ではなく、固体性なのである。一緒にまぜても、コーヒーと牛乳のようにカフェオレ色にならない。赤い小豆と白い大豆を混ぜたみたいに、個々の色と形状はそのままに残っている。

「わかった」と言えるときが、誰にとってもおそらくずっと来ないのがインドであろうと思う。永久に話し続けられるし、永久に書き続けられる。人はその文化を混沌と形容する。私はいつも生活の視点からしかインドを見ていないが、どんな角度からでも、高みからでも底辺からでも、切り口は無限にあって、ほんとうに果てしない。インド人でも外国人でも、人がそれぞれの立場から語るインドには、新しい定義と魅力がある。

※会社の日刊メルマガでもインド情報を配信しているので、インドについてもっとコネタが欲しい方はぜひ登録してください。

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September 16, 2009

みんな、ブログを更新しよう

うちの会社でインターンシップを終えてインドから日本に帰った若者たちは、みんな急に自分のブログを更新しなくなって、私はとても寂しい。みんな・・・、頼むよ。見回りをするブログの数が減って悲しいので、「なんならわたしのブログを読みますか?」とおっしゃってくれる親切な方はぜひリンクを送ってください。

ブログのなにが楽しいかって、他人ががなにを考えているのかをリアルタイムで追えるところだ。「あの人、最近どんなこと考えてるんだろう?」と思って誰かのブログを開く。いろんな事件が起こっていたり、意外な事を考えていたり、前と逆のことを書いていたり、くだらない自慢話をしていたり、落ち込んでいたり、生きているその人の人生が垣間見えて面白い。だから、どんなに短くても意味のない話でも、ブログは更新することに最大の意義があるのであって、中身はその次にくればいい、と私は思う。

このブログをときどき読んでくれている友達が以前、「普通に友達づきあいしてたら、友達がなにを考えているのかここまでわからないよね」と言っていた。書いている自分もまた、自分がなにを考えているのか、どんな風にものを考えるのか、日々文章にしていなければここまでわからない。どんな短い文章にもなにかしら結論が必要だから、書き始めちゃったら考えて答えを出すしかないわけで、そのプレッシャーが日々の考えを深めていく。いわば思考のペースメーカーとしてブログが役に立っている。

私がブログを書くときには、子どものころに学校の先生か誰かに習った「作文はあったことを書くんじゃなくて、考えたことを書きなさい」という教えに純粋にしたがっている。「考えたことを伝える」という目的で書いていると、自分の生活や人間関係を必要以上に暴露しなくてすむから、単純に書きやすいのだ。理論と実践がいつも一致するわけではないように、自分が考えたことと自分自身とは必ずしも同一ではない。一方で、考えを人に披露することで、自分の行動が影響を受けて自然と正される。そうやって、自分の文章につられて自分そのものもまた襟を正して、いい方向に変化していけたらいい。

今年からややハードルを上げるために、本名でブログを書き始めた。せっかく一生懸命書いているんだから、いつかは、初めて会った人に、「私について興味がありましたら、とりあえずブログをご覧下さい」とURLを差し出せるブログにできたらいいと思うのだが、先は長い。

September 10, 2009

ストイックな男の人生 山崎豊子「沈まぬ太陽」

山崎豊子の「沈まぬ太陽」を読み始めてそろそろ3週間目になる。以前会社にいたインターンの青年が日本に帰るときに置いていったのを借りて読んでいるのだ。かなり面白い。

日本にいるときは、企業ドラマなんておっさんばっかり出てくるし登場人物は多いしポリティクスやらなんやらいちいち理解するのが面倒くさいからキライ、と思って読んだことがなかったのだが、「ドラマ 華麗なる一族」は面白かったし、読んでない日本語の本がもう残ってないという差し迫った理由もあり、読み始めたら止まらなくなって朝ごはんの時間まで本を広げている。全5巻だからなかなか読み応えがある。

ストーリーを簡単に解説すると、主人公の恩地は、官から民に移行しつつある巨大な航空会社「国民航空」の社員で、優秀さを買われて労組の委員長に任命される。正義感が強く実直な彼は、「空の安全」を守るために、社員の労働環境を改善しようと死力を尽くすが、その結果、会社はその存在を疎んじて「アカ」のレッテルを貼って迫害し、懲罰人事で海外の僻地をたらいまわしにする。飛行機事故を契機に、半官営の汚れきった大企業と、それを変えようと戦うストイックな組合員たちのドラマ、というような話です。

主人公の恩地さんは、スーパーストイック男である。そんなひどい仕打ちを受けて出世の見込みもないような会社さっさとやめたらいいのに、戦っている他の組合員たちのために耐えて耐えて耐え続ける。それでいて、その苦しみのなかでも心だけは澄んでいる。アフリカやらパキスタンやらにぼんぼん飛ばされて孤独な単身赴任の生活のなかでも、美女に情熱的に迫られても決して興味を示さない。まさに女の書く男、という感じの主人公である。

こんな男は世の中にはいないか、いたら頭のおかしい人である。表で極度に「倫理的」な人間は、裏ではかなり性格破綻しているというセオリーを私は信用している。なんだかごつごつして妙なこだわりがあったり、「あ、ヘン」と見てわかる人のほうが付き合ってみるとまともなものである。だが、これは小説だからいいのだ。恩地さんはストイックだけれど変態ではない男なのである。

世の中には、「本当は周りがおかしいのに、自分がおかしいと見られてしまってる」という悲惨な状況に立たされている人はたくさんいるはずである。「周り」が大多数で、力がある場合には、そちらが単純に正義になり、声を上げている個人は迫害される。そんなケースは大なり小なりごろごろしている。経験したものにしかその恐怖はわからない。一度もそんな経験をしたことがない、という人がいたら、それは自分が常に「周り」の側にいただけの話である。

そういう人数や力による迫害のまっただなかにいる人には、ストレートに、励みになる物語だろうと思う。秋の夜長にはおすすめです。

September 8, 2009

「愛」についてのそれていく話

今週はすさまじい量の仕事に追われて気持ちが殺伐としているので、愛についてつれづれなるままに語ろうと思う。

マラティ語で「アイ」は「お母さん」という意味なんだそうだ。だからムンバイに住んでいて自分の名前を言うと、「え?」という顔をされることが非常にひんぱんにある。家族連れがいっぱいのショッピングモールの食堂なんかでごはんを食べていると、子どもが「アイー」とおかあさんを呼ぶ声がいろんなところから聞こえてきて、いちいち振り返ってしまう。

インドのオフィスでは英語が公用語なのだが、「Ai」 は 「I am」 の「I (私)」 と発音が同じなので、時々混乱を生じる。例えば仕事の打ち合わせをしていて、「アイ ウィル ドゥ ザット」 と誰かが言ったとき、Aiがやりますよ、といいたいのか、自分がやります、と言いたいのかがとっさにわからない。そのため、混乱を避けるために「Ai Kanoh will do that.」 とフルネームで言われることがしばしばである。「アイカノウ、ランチもう食べた?」とか聞かれるとかなり違和感があるものの、まあ仕方ないから我慢している。

谷川俊太郎さんの詩にこんなのがある。

悲しみは むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこにある むきかけのりんご

感情はその場限り、対象に宿る。悲しみだけでなく、愛も同じだ。ひざの上の猫や、流しに立てかけられたぬれたままの食器や、朝のさめた湯たんぽや、書いたけど出さないままの手紙や、そういうもの、それそのものの中にあるわけで、だから優しい言葉や態度や、愛を表現するための特別な媒介はいちいち必要ないといってもいい。感受性さえあれば。

人間の感受性はとても偏っているので、たとえば机に置きっぱなしになったコーヒーカップ一つを見ても、そこに悲しみを見る人もいれば愛を見る人もいる。恋人のぶっきらぼうを無関心と取るか、信頼と取るかも、その人、そのときによって変わる。もしそれがある程度自分の心がけしだいでコントロールできるものなら、愛とか、なるべくよきものをいつもそこに見ていたい。

教師が一途に信頼することによって生徒を成長させるように、意外なことに、対象になにを見出すかによってその対象そのものが現実に姿を変えていく。だからせめて自分からの視線は常にあたたかいものにして、そういうソフトな方法で物事を変化させていけたらいい。

という、それつづける愛についての話であった。

August 25, 2009

プロとアマの境界線

日本に住んでいたときに一番楽しみにしていた番組に、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」がある。無農薬りんご農園の竹本さんの話なんかは、ビデオにとって何度も繰り返し観た。自分もプロフェッショナルになりたいと思っていたし、今もそう思っている。

今の仕事を始めて最初のころ、自分はマーケティングの素人という意識で働き始めた。2年目を続けるか続けないかを上司と相談していたときに、上司に「この仕事の先には自分のゴールがなさそうだし、今のポジションではずっと素人でしかないかもしれない」と正直に言ったら、彼は「Things change.」、だからそんなに専門にこだわりを持たずに、面白いと思っている間は仕事を続けたらいいじゃないか、と言った。どうしても辞めたくなったらいつでも辞めたらいい、別に引き止めはしない、という話だった。それからの2年目は、素人の域を出て、意識だけでもプロにシフトチェンジしようとわりとがんばってきた。

アマチュアにはアマチュアの利点がある。ユーザーとしての純粋な目で物事を見ることができるし、経験や理論にとらわれずに「好み」でジャッジできる。私の会社はインド企業で日本をマーケットにしたビジネスを行っているので、日本人ユーザーとしての批判的な目を持っているだけでも最初のうちは重宝がられた。そういう素朴な能力が求められていた。しかし今はそうではない。1年目と同じ事を繰り返しやっているわけにはいかない。

自分の考え方も少し変わって、今の分野で将来的に仕事を続けるかどうかは特に問題ではなく、それよりもこの瞬間にプロでありたいと思うようになった。仕事を深くやればやるほど、「わからないこと」に対する焦燥感も生まれてくる。わけがわかっている者になりたいという欲も出てくる。企業の社員としてのプロ、使われる人間としてのプロ、人に仕事を頼む人間としてのプロ、あるいは書き手としてのプロ、などなど、一つの仕事にもさまざまな側面があり、あらゆる面でプロフェッショナルを追求することにはかなりの努力が必要である。

自分が仕事をしているフィールドに対する深い知識もなく、経験も浅い人間が、まがりなりにもプロフェッショナルとしてのアイデンティティを築くためには、ちょっとした裏道がある、と私は思っている。一つはアイディアであり、もう一つは自己批判の能力をつけることである。特に後者が重要で、自らをプロと呼ぶためには、自分で自分の仕事を批判できる目を早く育てることが近道である。つまりは自分を指導できる教師としての目を自分の中に持つのである。

学生がなぜ学生なのかというと、指導者がいないと自分の間違いに気づかないからだ。算数の問題を解くにせよ、卒業論文を書くにせよ、自分の解法や論証の誤りに自分で気づくことができないから、よりメタな物の見方ができる教師が必要なのである。一方で、プロの数学者や研究者は自分の解法や論証を自己批判してひとりでに鍛える能力を訓練されているから、いちいち誰かに指導を仰がなくても自分で研究を進めていけるのである。

仕事も同じである。会社に入ってきた新入社員には仕事のトレーニングをするわけだが、「もう指導は必要ない」とわかる瞬間ははっきりしている。自分のやった仕事のダメさに自分で気づくことができる能力がついたときである。なんでもかんでもやったままに「できました」といって持ってきていた人が、「やってみたんですけど、ここがどうしてもうまくできません」とい言いはじめたら、ほとんど卒業である。あとは本人が勝手に学習していく。自分のやっていることのレベルがわかれば目標や向上心も出てくるし、自分がやった仕事のどの部分はそのまま使えて、どの部分は人に指導を仰いだほうがいいのか自分で判断することができるようになる。

それがプロと素人の分かれ道であり、指導する立場としては一番エキサイティングで、かつ同時に安堵する瞬間でもある。

自分について言えば、正直なところ、自分がやっている仕事の9割近くは自分が正しいトラックを走っているという自信はない。しかし、自分のした仕事が、もし偏差値で例えるならどれぐらいのあたりにいるのかはなんとなく想像がつくようになった。自分が作った広告コピーがいかにつまらないか、自分の水準とするデザインのレベルがどれほど低いかはわかってきている。そこをとっかかりにして、優れたケースを勉強したり、品質の高い作品にたくさん触れたりして、より自分の能力と仕事のレベルの相対的な位置づけを少しずつ明確にしていくしかない。とりあえず、取っ掛かりはあるのだ。

August 20, 2009

英語で文章を書くということ(1) 英語は英語で書く

今うちの会社で夏の英語エッセイ・評論コンテストを主催していますので、興味のある方はぜひ参加してみてください。(お知らせです)

さて、このコンテストのプロモーションのために社員の英語リレーエッセイの企画があり、私も久しぶりにまとまった英語エッセイを書いてみた。500から600ワードの英語エッセイというと、日本語にしたらおよそ私が普段このブログで書いている一記事と同じぐらいの量だ。このぐらいだと、最後の三分の一を書ききるのに少し力がいるけれど、まとまったことを一つ言うのにはちょうどいい。

英語で文章を書くときのポイントは、最初から英語で書くことである。日本語で書いた文章を英語に翻訳するのはあんまりおすすめしない。端々の表現で、「日本語ではこう言いたいんだけれど、英語ではどう表現するのかな」と辞書を引くのはもちろんかまわないけれど、文章全体を日本語で書いてそれを翻訳すると、英文としてはおかしなかんじになる。読者が違うからである。

英語で文章を書くときには、英語がわかる人たちに向かって文章を書く。そうすると、必然的に日本語で文章を書くときとは説明する内容も変わってくる。例えば、日本人に向かって花見についていちいち文章で説明しようとは思わないから、日本語で花見についての文章を書くと、日本人以外の読者に対する配慮が自然と失われてしまう。最初から英語で書いていると、自然と「ここはもっと説明しないと日本人以外にはわかんないよな」という部分を補足できる。

たとえば、日本語の文章なら、単純に「花見」、と書くところを、英語の文章では「hanami, the Japanese traditional custom of enjoying the beauty of cherry blossom」と書くわけである。これは日本語からの直訳ではできない。だからせっかく日本語で完璧な文章を書いたとしても、英語の文章にはかなり修正を加えなければならない。

だから、へたくそでも語彙力不足でもなんでもいいから、英語の文章は最初から英語で書き始めてみるといい。別に時間制限なんか無いんだから、2、3時間集中して書き続ければ一応まとまった量の文章になる。英語を勉強している人は、週末に時間があったらぜひ試していただきたいと思う。

August 18, 2009

ザ・トーカティヴ・アメリカン

アメリカ人の友人がいる。彼女は元同僚で、驚くほど人の話を聞かない。放置しておくと、1、2時間は平気で一人で話し続けている不思議な人である。

こう言ってはアメリカ人の人たちは心外に思うかもしれないけれど、私の少ない経験からすると、アメリカンは一般的傾向として、説明過多である。ものすごいスピードの英語で、話題の背景をことこまかく説明する。意見を言うときには詳細な理屈を欠かさずつける。「だいだい雰囲気でわかってくれるだろー」という甘えがない。10回に3回は結論のない話をし、残りの7回は笑ってごまかす、という私のような投げやりな態度では生きていない。そのため結果的に、ひとつひとつの話が長くなるのであろう、と推察する。

その友人は、そのアメリカン傾向に10をかけたぐらい話が長い。これは国民性とはかけ離れた傾向である。なぜそんなに話すことがあるんだろう、と不思議に思って一度話を聞きながらダイアログ分析をしてみたら、どうも同じ説明を微妙に言葉を変えながら3回ぐらい話しているせいなのである。そこまでして説明しないとわかったかどうか心配なもんなんだろうか、この冗長さを削って効率を上げようとは思わないのか、と不思議に思うが、まあ人生には思ったより余す時間があるわけだし、本人がいいと思っているならそこを追求する必要はない。ただし、急いでいるときには結構困る。トイレに入ろうとして洗面所でばったり会ったりするとなかなか聞く側としては問題である。

さらに、彼女はまったく聞き手の意見を必要としていない。すべての話が自己完結しているのである。だから、「あなたはどう思う?」という展開になることがまずない。インディペンデントにも度が過ぎている。別に人の意見なんか必要としていないのだ。自分が思ったことを自分が思ったとおりに実行し、起こった出来事を分析して独自の結論を出し、それを人生に一人で活かしていくだけなのである。だから、私が何か意見なり感想なりを会話の間にさしはさもうとしても、さしはさむ隙がない。さしはさんだとしても、たいていは無視である。時々何かに挑戦するために質問なり感想を投げてみるのだが、たとえ2センテンスねじ込んだとしても、まったく彼女のアンテナには引っかからないのである。まるで虚無に向かって叫んでいるような、なんとも不思議な気分になる。

しかし、この強烈なキャラクターと、Extremely Independentな存在としての不思議さがどうしても気になって、時々コーヒー・テーブルを挟んで尽きない話を聞いている。多分引越しでもしたら、私のことなんかあっという間に忘れ去るにちがいない、と確信が持てる。しばしば頭に空白が訪れて、いろんな人間がいるなあ・・・と軽く意識が遠くなることがあるのだが、気にしてないみたいだからべつにいいのだ。

イス取りゲームではない

小さい組織で働くことの利点は、いろんな種類の仕事がやれることである。一方で、難点は分業化がすすんでいないために、なんでも一人でやらなければいけないことだ。なんでもかんでも。アイディアを出すのも自分、実行に移すのも自分。やったことない仕事をやることが、むしろ日常業務である(今、私の同僚のみなさんは力強く頷いているかもしれない)。そういういろいろをぎりぎりこなして、自分のポジションを徐々に作り上げていくことが、小企業で働くことの創造的な部分である。

世の中にはさまざまな能力のスタイルがある。高度に専門的な能力や興味を持ち、その一つの「深さ」を追求して生きる人もいれば、ありとあらゆることに興味をもって、自分の能力の「面積」を広げていく人もいる。前者の人が成功するためには、その能力を認めて効果的に使う優れたプロデューサーの存在が不可欠であり、後者の人が何事かを成すためには、優秀な技術者を集めることが不可欠である。また他方で、どちらの能力も対して優れていないという場合には、自分をサポートしてくれる人の存在を増やす知恵が必要である。そういう意味で、自分のタイプを見極めて、必要な環境と人脈を自分に用意できるかどうかが結構大切なのだと思う。

私自身はどうかというと、技術者・専門家タイプの人間になりたいと自分では思いながら、興味や能力を一つのことに統合することができない、という感じでふにゃふにゃとここまでやってきた。物事はあこがれたとおりの形を取らない。まだ若いころは、まだその一つに出会っていないだけだと思っていたが、どうやら自分の能力のあり方は、そういう方向性のものではないらしいと感じ始めている。いろんなことがしたいのである。なんにでも首を突っ込みたいのだ。しかし、そのためにたいていのことは未完成に終わる。こういうのは無節操で無軌道ではあるけれど、いわゆる「成功」のようなものを求めなければ、このスタイルでもあるいは品のいい人生が送れないこともないだろう。

組織・社会におけるサバイバル術は、自分の居場所を自分で作ることに他ならない。私たちは別にイス取りゲームをやっているわけではないので、イスがなかったら地べたに座ればいいのである。あるいはコンビニの車止めの上のほうが快適かもしれない。これは仕事に限ったことだけではなく、例えばグループや学校のクラスで自分の居場所がないと感じている人は、誰かが作った場所や役割の枠組みからいったん外に出て、自分で勝手に座る場所を作ってしまえばよい。そうしてみると、意外と自分と似たような離れた場所に座っている人が結構いることに気づくはずである。

そんなふうに、働くことはそれがどんな仕事やポジションであれ、かなり創造的な活動なのだ。どんなに専門的な職業であろうと、研究者であろうと芸術家であろうと、かならず社会には代わりがいる。どんなに有名なミュージシャンであろうと、死んだあとには誰かがその精神的な穴を埋める。一方で、どんなに単純な仕事であっても、人に負けない能力なんか一つもなくても、ちゃんと働く場所はどこかにあるはずだ。自分が必要とされているかどうかは問題じゃないから、とにかく座れそうなところに座ったらいい。立っていたいというなら、勝手にすればいいのだ。

August 7, 2009

病来る ―インドの病院と家族愛

インドで暮らし始めてから、発熱性の疾患に少なくとも10回以上かかっている。ちょっと喉が痛いなー、と思うと、翌日には39度とか40度の激しい熱が一気に出る。どういうわけか、こんなに病気にかかっているのにさっぱり免疫ができない。インドの細菌が強力なのか、あるいはまわりに細菌が多すぎるのだろうと思う。

7月から仕事が忙しくて疲れがたまっていたので、週末は仕事を休んでゴアにでも行ってのんびり海を見ながらゴアカレーでも食べようかなーと考えていたのに、それどころではない。たまった疲労を解消する前に、病気が先に私を見つけたようだ。会社の極東アジア社員連名(単に台湾、韓国、日本出身のスタッフの集まりです)の清栄のみんなが企画した、三国料理パーティーにも行けない。会社のピクニックにも行けない。楽しそうな企画にいっこも参加できない。このままだと病気になるとわかっていただけにものすごく悔しいけれど、よくあることである。

一人で暮らしていると、病気になったときの処理能力がだんだんついてくる。今回なんか、まだ熱が出始めてもおらず、ほとんど症状がない時に、「あ、来る」と気づいてすかさずスーパーマーケットに行き、病気のときに食べられるものと飲み物をそろえた。総合病院に行って、医者に「熱は出てないんだけどもうすぐ出ると思う。死ぬほど寒いからマラリアの検査をしてくれ」と頼んで、夜には感染テストを一通り済ませて薬をもらった。なんでもなかったんだけれど、最近会社の女の子がマラリアにかかったのに、誤診で1週間もちゃんとした治療が受けられなかったので、念のためチェックしたのだ。

ちなみに、ムンバイのような大都市でも、街の機能は家族単位で暮らす人々のために作られていて、一人暮らしの人間には優しくない。病院に行って診察を受けると、簡単なチェックをした後で、「家族かだれか付き添いの人はいるか」と聞かれる。いない、と答えると、「じゃあ自分で受付に行って、まず診察代を払って来なさい」と言われる。この受付とやらが、病気の身で歩いていくにはちょっと遠い。お金を払って医者のところに戻ると、「じゃあ、血液検査をするから、もう一回受付に行って血液検査代を払ってきなさい」と言われる。「えー、また?」と文句を言っても、誰も代わりに行ってくれない。お金を払って、今度は自分で血液検査のカウンターまで行く。血液を採取すると、「夕方ここに結果を取りに来て、それから医師のところにもう一回行ってください」と言われる。一箇所に機能をまとめといてよ、と思うのだが、どうしてかそういうシステムになっていない。

入院したときなんかはもっと大変で、医者が処方箋を出すと、患者かその家族が薬や点滴、注射器をいちいち薬局まで買いに行かないといけない。付き添いなしで入院したりしたら、点滴が必要なほど体調が悪いのに、ベッドから起き上がって自分で薬局まで行って点滴のバッグを買いにいかなければならない。どういう理屈でこんな不便なシステムになっているのかはわからない。

まあとにかく、こういう大変さを何回も経験済みなゆえに、「病院には病気が本格的に悪化するまえに行くべし」という教訓を身にしみて学んでいる。人間、痛い目を見れば多少は賢くなるものだ。不便さからは逃れられない運命である。

今朝起きてみると、料理上手のルームメイトが野菜たっぷりのおじやを作っておいてくれた。ほかほかのおじやを食べながら、インドで暮らす人々は、多分こんな家族の愛で病気に打ち勝つんだろう、と考えた。もちろん、超強力な抗生物質の力を借りながらだけれども。(ちなみに、日本ではだいぶ前から病院で抗生物質をあんまり出さない方針になっていると思うんですが、インドの病院でもらった抗生物質をがんがん飲んでいるとどんな悪いことがおきるのか、知っている人がいたら教えてください。)

July 30, 2009

仕事との距離

仕事が楽しくなっている。人に恵まれて、新しいことやいままでやれなかったことに手をつけられるようになったことが一つ、信頼関係がしっかりしてきて、手足の自由が効くようになったことが一つ、いろいろやってきたことの結果が少しずつ返ってきて、先のヴィジョンが少しだけだが見えかけてきたことが一つ。

私はかなり物事にのめりこみやすく、一度のめりこんでしまうと自己と対象との区別が完全につかなくなるたちなので、今の仕事に関しては常に心理的な距離をとるように慎重にやってきた。メンタルが弱いので、何かと同一化して物事がうまく回らなくなったときに、いつかクラッシュするのが恐ろしい。だから神経回路が固まらないように、オフィスを出たら頭を切り替えて、家にいるときには他の好きなことをすると決めている。この一線を維持するのはなかなか難しいのだが、今のところはまあまあうまく言っていると思う。

月並みなことだが、チームにいいスタッフが集まっていることも仕事が楽になった理由の一つだ。できないことは、自分よりできる人に手伝ってもらえばいい。人には得意不得意がある。会社は、人数によって個人の欠落を埋められる場所である。組織によって文化はそれぞれだろうが、私の働いているチームでは、自分が個人としてどれだけ業績を上げたか、ということはほとんど意識に上らない。企画は関わったスタッフのアイディアの複合体であって、成功も失敗も個人に還元されることはないからである。たとえ自分が関わらなくても、だれかが成功させてくれればいい。「自己実現」のような幼稚なゴールは目指されていない。この文化もまた、仕事に適度な距離感を保つことに一役かっている。

以前にも書いたことだが、頭をやわらかくして、自分に飛んでくる球を打って言われたとおり走っていれば、だんだんゲームのルールがわかってくる。自分がどのポジションを得意としているのか、他の人がどんなプレイをするのか、ゲームの状況が立体になって見えてくる。やみくもにやっていたことに、自分なりの理論や意図がついてくるようになる。そうすれば仕事がちょっと面白くなってくるのは仕方がない。

1年単位の契約を更新しまがら、「仕事は面白いか?」と常に自分に訊ねている。1年契約だとつづけるか選択をすぐに迫られるから、常に考えないわけにはいかない。自分がどこに向かっているかはわからないけれど、まあこいつはもうちょっとだけつづけられそうだ、といつもおそるおそる考えてきた。べつにおそるおそる考えることもないのだが、しらふでいるために、「いえいえ、前線には立っていませんよ」、という心理的距離を保っている必要がある。とりあえず、今のご時世に贅沢な話みたいだけれど、まだまだぜんぜん面白い。

July 21, 2009

寿司と日本人アイデンティティ

最近家族がそろそろ日本に帰ってこいとアピールしてくる。父は「日本人の平均寿命はどんどん延びている。それに比べてインドは空気汚染と水質汚染もひどく環境が悪いらしい。だから早く日本に帰ってこないと、長生きできないぞ」と寿命を理由に脅してくる。母のほうは、「私はどうでもいいんですけど」と言いながら、「ところで、あなたの歯科助手のお友達が最近結婚して仕事をやめたから、近所の歯科医院でスタッフを募集してるよ」と軽くプレッシャーをかけつつ転職をすすめてくる。

心配してくれる人がいるのはありがたいことだと思います。しかし日本のテレビや新聞はあんまり愛知方面にインドのよくない情報を流さないようにしていただければ私としては助かります。

ところで、インドでしばらく暮らしているうちに、だんだんインドを対照として見た自分の日本人アイデンティティが徐々に薄れているように思う。以前にも書いたかもしれないが、インドと日本は社会の構造も人間の行き方も仕事のやり方もかなりちがうために、インドにやってきた日本人は必然的に「日本人としての自分」を意識せざるを得なくなる。その結果、日本の文化にやたらこだわりを強めていく日本人もいる。

私も最初は「何でこんなに常識が違うんだ」、とびっくりして、仕事上で葛藤を起こすこともあったし、自分の理屈が通用しなくて困ったこともかなりあったように思う。でもなんだか今はなじんでしまった。正直なところ、今自分には日本的常識があるかどうかがわりと心配である。

日々の生活でも、ささいなことでインドによって照らし出される日本の異質さと、逆に日本によって照らし出されるインドの異質さがひたすら面白かった。もちろん今でも知らないことばかりで、インドの文化や社会そのものに対する興味は底を尽きない。しかし、以前ほど自分の中に「日本とインド」という強烈な対照性が存在しない。その部分へのこだわりが弱くなったような感じである。時々日本に一時帰国すると、昔の感覚が少しだけよみがえるのだが。

そんなふうで、じゃあ自分にとって何が最後まで捨てきれない日本へのこだわりだろうか、と考えたら、これは寿司かな、と思う。やはり人間、最初に来るのも最後に残るのも低次の欲求ということなのか、日本の食べ物への愛とこだわりだけがいつまでも薄れずに残っていく。人によってはラーメンとかお好み焼きらしいが、私にとっては生の乗った寿司である。お祭りのちらしや、コンビニのパック寿司、農協の火曜日の寿司バイキング、それから祖母が市場で買いたてのまぐろを、酢を混ぜたばっかりのまだほんのりあたたかいごはんに乗せてくれたふわふわの家族にぎりの記憶が、ふしぎなぐらい強い記憶になっていくのだ。

ココナッツオイルに効果あり

先日、新しいサンダルを購入したところ、今までのサンダルと素材が当たる場所が違ったので、足が靴ずれでずるむけになってしまった。一日歩き回っていたら、足の3箇所ぐらいから血が出てとても痛かった。

会社でファッションチェックの厳しい社員のお姉さんに「新しいサンダル見せてよ」と言われたので、「あれはだめ。痛くてはけたもんじゃない」というと、「そういうときは慣れるまでココナッツオイルを塗りなさい」という。またココナッツオイルか、と適当に聞き流していると、彼女は傷口のために絆創膏を持ってきてくれた。

インド人の女子は何かというと「ココナッツオイルを塗りなさい」と言う。ピアスの穴が炎症を起こしたときもココナッツオイル。髪が日焼けで痛んだときもココナッツオイル。なんかがまのあぶらみたいな話なのであんまり信用できないなー、と思いながら会社のレセプションのベンチに座って足に絆創膏を貼っていた。

すると通りかかった受付の女の子が「あ、くつずれ!ちゃんと新しいサンダルにはココナッツオイルを塗りなよ」と言う。またかよ、と思ってスルーしていると、別の女の子が話を聞いていて、「そうそう、ココナッツオイル」と言う。3人に言われたからにはこれは本当かもしれない、と思い翌朝からサンダルと足が当たるところにたっぷりココナッツオイルを塗って出勤することにした。

最初の日はオイルでつるつる滑ってこけそうになり、「これ、危ないんですけど」と文句を言っていたのだが、2日目ですっかり調子がよくなり、くつずれれもできなくなった。買ったばかりだけど捨てちゃおうと思っていただけに、かなりうれしい。人の話はちゃんと聞くものである。

というわけで、毎日靴の手入れや髪のオイルパックにと、ココナッツオイルは大活躍である。近寄るとココナッツくさいかもしれないですが、南国の香りということで許していただきたい。

July 13, 2009

雨が降ればよい

6月の半ばにモンスーンに入ってから、ムンバイは毎日雨が降っている。朝起きると家の中が薄暗く、空はいつもねずみ色に曇っている。この天気がこのまま9月の末まで続くのである。

2年前の7月は、陽子と二人でポワイ湖まで自転車でサイクリングに行った。ポワイまではタクシーで大体2時間ぐらいの距離である。走り始めてしばらくは晴天で、ランニングシャツで走っていた陽子の肩が直射日光でじりじりやけて、低温やけどになってしまった。走り始めてから2,3時間でたるをひっくり返したようなどしゃぶりになり、嵐の中を逆風に向かって自転車で駆け抜ける日本人たちという感じで道端のインド人たちの注目を集めたのを覚えている。あんなとんでもない体験をしたのは、中学校2年生のときに学校のキャンプで連れて行かれた明神山登山以来であった。

その後しばらくして、毎日雨が降って外に出られない鬱々とした状態を打破するべく、電車に乗ってダウンタウンに行き、オベロイ・トライデントの2,000ルピーもするブランチブュッフエランチを食べた。あれは本当においしかった。オベロイ・トライデントのブュッフエには和食のコーナーと大きなデザートのコーナーがある。それだけでなく、メニューに載っている料理は何でも注文できて、シャンパンなんか飲み放題なのだ。

夏が大好きな、以前一緒に働いていた会社の先輩は、「太陽がカーンと照ってるとうれしくなっちゃうんだよね」とよく言っていて、私はそのたびに「へー・・・そうかねえ~」と言っていた。私もお天気は大好きなのだが、どちらかというと普段低めのボルテージで暮らしているので、くもりや雨降りはなんとなくちょうどいい感じがして好ましい。「あー雨だし、遊びに行かなくていいや」とか「空も曇ってるしやる気が出なくてもしょうがないやね」というくらいが安心するのだ。

そんなわけで、毎日傘をもって、降ってはさし、やんではたたみ、ぼつぼつと散歩なんかしたり、朝雨の中を会社に向かったりするのは、やや楽しい。豪雨というのもまた気持ちいいものだ。モンスーンはなかなかいい。

July 10, 2009

インドのニューヨーク

韓国から来た私のルームメイトは、「ムンバイはインドのニューヨークだって聞いてたのに、ぜんぜんニューヨークと違うじゃん、これ」とぼやいていた。

ニューヨーク・・・。まあ、デリーはインドのワシントン、ムンバイはニューヨーク、という例えは正しいんじゃないかとおもう。デリーはインドの政治の中心都市であり、ムンバイは経済と文化の中心都市という位置づけである。しかしだからといってムンバイがニューヨークみたいな街かといったら明らかに間違っていると思う。

しかし私にとってのムンバイはけっこうな都会である。たぶん、東京、大阪、名古屋の次ぐらいの都会だと思う。

ムンバイの中心街に行くとコンサートや舞台、アートエキジビジョンなどを頻繁にやっている。アーティストがけっこう集まる街のようである。だからギャラリーやら小さいイベントやらには事欠かない。そういうところは都会だなあと思う。私は愛知出身なので名古屋が文化の中心地たるべきだとは思うのだが、名古屋はいまいちそういう文化的な雰囲気がない土地だ。だから愛知と比べてムンバイは断然都会である。愛知と比べられてもわからないとは思いますが。

さらに若者の町バンドラなんかに行ったら、おしゃれなクラブやバー、ディスコなんかがいろいろあって、いろいろな都会っぽいギラギラしたことが繰り広げられているらしい(が、ホントはよく知らない)。私の以前のルームメイトはよく金曜の夜にクールにパーティーメイクをして、特別な服を着てバンドラのバーに繰り出していた。だから遊びたい人にはちゃんと場所があるのだと思う。

楽しそうだから私もちょっとはのぞいてみたのだがなかなか機会がない。暗くなってから外出して疲れるぐらいなら家でイカでもあぶって飲んでたほうが楽でいいや、という根性だと、なかなかチャンスがめぐってこない。ちょっと気合いを入れてそのあたりの文化を開拓してみるのもいいかもしれない。