June 28, 2008

のんきなインドの文化

先日、会社で半期に一度のパフォーマンス評価があった。上司が部下と面接して、一緒に働いている数人のスタッフからのフィードバックと自己評価のデータをもとに、仕事のパフォーマンスを評価して、今後の改善点などを話し合うイベントである。いちおう、この評価が昇進や昇給・ボーナスの額にも反映されたりする。

私は前の上司にも、今の上司にも、「困ったときに、もっとすぐ人に相談しなさい」と同じことを指摘された。そうでないと大丈夫だと思ってほうっておくし、ストレスを溜め込んでいても気づけない、だから心配される前に自分からアプローチしてきなさい、という。同じことを違う人から二度続けて言われたら、これは明らかに私の性格上のパーマネントな問題である。私は相談が下手で、行き詰ると自分の殻に閉じこもる傾向があるのだ。鋭い指摘である。

一方で、これにはインドの文化的背景も関係している。Mark Tullyというノンフィクション作家が著書 “India’s Unending Journey” の中で指摘していることだが、「インド文化は話し合いの文化」なのである。チャイ屋や電車や街角で人々を観察していると、人々はどこでも誰とでもなんだかんだと議論しあっているのを目にする。とりあえず人に話す。困ったら尋ねる。文句があったら言う。それでその場に居合わせた数人でわいわいと議論して解決するのである。だからインド人から見ると、他人に自分の問題を持ち込んだら迷惑をかけるんじゃないかとか、そういう余計な気遣いが見ていて歯がゆいのかもしれない。「もっと人に助けを求めなきゃだめじゃないか」とクチをすっぱくしていわれる。Mark Tullyはこの「話し合いの文化」こそが、多宗教、多民族、多文化が混在し妥協しあいながらインドがひとつの国として成立していることの秘訣であると書いている。いわれてみればそんな気がしてくる。

ところで、その話の続きで上司がなかなか興味深いアドバイスをしてくれた。インドと日本では文化がかなりちがう。インドでは、事が起こってから考え始める。君もそれをうまく利用したらいい、というのである。
「君は日本で、何かが起こる前に前もって計画を立てて事に備えて行動する、というのが当たり前の文化で育っているけれども、インドはそういう文化じゃない。インドでは、人は何かが起こってから考え始める。だから、予定に入ってないから来週会った時まで待って相談しよう、と思わないで、いつでも思いついたときにすぐ問題を持ち込んでくるようにしなさい。」と彼は言った。これを聞いて、うーん、なるほど、と思わず唸ってしまった。かなり含蓄ある話である。こういう比較文化的な観点から物事を見直してみると、いろんなことが腑に落ちてくる。単にずぼらだと思っていた人々の性格も、見ようによっては合理的なものに思えてくる。

考えてみれば、1年かけて完璧な計画を立ててから実行に移すのと、1日も考えずに実行に移して、問題にぶつかったら軌道修正して、1年かけてまともなものにに改善していくのとで、一年後の成果にどう差がつくのだろうか。場合によっては、最初はかなりの不備があって人から苦情なんかが出たとしても、うまくやれば後者のほうが世の中の動きにあったいいものができるかもしれない。どちらがどうとは簡単にはいえない。

インドに住んでいると、日本人や韓国人、台湾人のビジネスマンに会って話を聞く機会が何度となくあるのだが、彼らはインド人のビジネス能力を低く評価している。「インド人は怠け者だ」とはっきり言う人もいる。このような日本の優秀なビジネスマンは、自分たちのビジネスのやり方が “正解” でありインドはまだそのレベルに至っていない、と信じているように見受けられる。しかし、こういった評価はフェアではない。そういうことじゃないのである。やり方が違うだけなのである。ただこの「そういうことじゃないんだけどな」というセンスをわかってもらうのは至難の業だ。伝わる人はそんなこと最初から知っているし、伝わらない人には、ただ単にわからない。

いずれにしても、日本とインドの間で仕事をしている人たちは、この2国の文化と国民性の大きな隔たりをひしひしと感じているから、「いちげん」持っている人がけっこういるものである。そういえば、職場の先輩の日本人は「日本人は失敗から学ぶが、インド人は成功から学ぶ。」という格言を持っていた。のんきだ。どっちがより効果的か?それは長期的に見ればわかりません。しかし、どっちがよりハッピーかといえば、これはもう比較のしようがない。

June 24, 2008

クロフォードマーケット

月曜日に、休みを取って一人でサウス・ムンバイに出かけた。暇だし月曜日なので、ここはこれ、ということで、クロフォードマーケットに1年越しでとうとう行ってきました。「ムンバイの台所」と(地球の歩き方に)言われている、巨大な食料品、雑貨マーケットです。なんで1年後しかというと、ここは日曜日に休業しているからです。

クロフォードマーケットでてくてく歩いて、輸入雑貨屋で牡蠣の燻製を買った。同居人の陽子がちょっと前に牡蠣食べたいとつぶやいていたので、お土産にしようと思った。それからマカロニチーズを買った。以前友人のニックが母国アメリカから郵送したマカロニチーズの箱が、インドのひどい郵便事情のおかげでぼろぼろになり、マカロニが完全に粉砕された状態で届いたという事情を思い出して、これもお土産のつもりで。自分のために照り焼きチキンのタレを買った。中国語パッケージの醤油も売っていたけど、重いし持って帰るのがいやだからあきらめた。ちなみにインドの普通の街角で、日本の醤油とか味噌はまったく売っていません。クロフォードマーケットにも味噌はなかったな。

そんなわけで買い物袋を振り回しながら、食料品マーケットを抜けて動物マーケットに向かいました。動物マーケットは、食用の動物と観賞用、ペット用の動物がごたまぜに売っているので、ある意味では人間存在の不思議について考えさせられるといえなくもないです。七面鳥とか鶏とかうこっけいみたいな鳥なんかは食用とわかるんだけど、ときどき小さくてかわいいふわふわの鳥の雛がかごに入っていると、「ううむ、このかわいい子は食用か、観賞用か?」と悩む。その横にうじゃうじゃいるハツカネズミは。そのまた横につくなったウサギの子たちは。

ううむ。ネズミとウサギは境界線で、ペットにする人もいれば食べる人もいる、というあたりだろうと見当をつける。お兄さんがケージから出してウサギと子犬は抱っこさせてくれました。犬は一匹2,000ルピー。値段からしてこれは食用ではない。猫は明らかに観賞用の毛のふさふさした洋猫ばかり。

(食用) 七面鳥、鶏、うこっけい(?)----ねずみ---うさぎ---モルモット----犬、猫 (ペット)

というあたりか。
帰りに乗ったタクシーに買った牡蠣とマカロニチーズと照り焼きチキンのタレを忘れたので、これらの戦利品は闇のかなたに葬られました。

June 22, 2008

買い物大好き

先週の日曜日、お風呂に置くプラスティックの小さい椅子を買った。そのついでに石鹸やシャンプーを入れる三角コーナー用の小さい棚と、化粧品を入れるケースを買った。うちの近くのサンパダ駅付近にある商店街の、行きつけの小さな雑貨屋である。その前の週は、40ワットと60ワットと75ワットの電球をアプナ・バザールというスーパーマーケットで買った。そういえば昨日は紙をくくっていたゴムが仕事中に切れてしまったので、別の雑貨屋に行って髪留めを買った。

買い物が好きだ。こまごましたものを買うために、街を歩き回るのが好きだ。だいたい、はっきりとした目的意識を持って買い物に行く。たとえば電球とか。そうすると買ったときに「ああ、ちゃんと買えたなぁ」という達成感が味わえていい。でもその興奮からいつもちょっと余計なものも買ってしまう。電球は一個でいいのに、いろんなワットの電球をいくつか買ってみよう、と色気を出してしまう。

「目的を持って買い物をする」習慣は、インドに来てからついたものだと思う。インドの街角で買い物をしていると、ぶらぶらなんとなくウインドーショッピングをするのは割と難しい。小さい商店だと、自分で棚から商品を取ってきてレジに持っていってお金を払うシステムになっていないからだ。文房具屋なんかはたいてい商品がカウンターの奥に隠れているので、店員さんに「ボールペンの黒」とか「ノートの、リングがついてて、でも分厚くないの」とか注文をだして、めぼしいものをいくつか出してもらって選ぶ。とにかくどこの店にも店員がいっぱいいる。人件費を減らす必要がないのだ。

買い物の用事がないと、少し悲しい。それで古本屋に行く。自由に商品を手にとっていつまでも選んでいられる本屋なんかは、久しぶりに行くととても楽しい。小さい買い物の用事が、いつも常にある生活が理想だ。

How to tell the difference between a living dog and a dead dog(生きている犬と死んでいる犬の違いの見分け方)

There are many dogs on the way to the office in Mumbai. I see more than 7 wild dogs in 5 minutes when I am walking. Most dogs are alive and walking around or deadly sleeping. But some dogs are sometimes really dead. Am I able to tell which dog is just deadly sleeping, and which dog is truly dead? Actually I can. I have found the difference between a living dog and a dead dog.

The most remarkable point is that dead dogs’ four legs are stretched out straight. There is air space between the left legs and right legs, and upper legs don’t touch the earth. This is because dead dogs get “rigor mortis” which means your body stiffens after your death. Dead dogs sometimes open their jaws because of the same reason. The appearance of dead dogs is stuffed specimens laid on the street. On the other hand, deadly sleeping dogs’ legs touch and tangle each other, and you can feel the flexible muscle. Also, sleeping dogs’ jaws aren’t open.

When I see these dead dogs, I hope not to be stiff like them. I want to keep being soft and flexible. Dead stiff bodies are easy to be broken, and flies and crows come to eat bodies aiming the gaps between the broken cells. This can be applicable for mind too. Dead mind could be easily possessed by bad spirits. I think my mind is sometimes almost sleeping but is not dead. I am safe.

Do I know how to tell the difference between a living mind and a dead mind?
Not yet, unfortunately.

June 20, 2008

胃潰瘍は伝染する

仕事でへとへとに疲れていると、どういう加減か、ついつい職場の仲間にも自分と同じようなプレッシャーをかけてしまう。これは悪循環というもので、よくないのでやめよう、と思うのだがなかなか思うようにいかない。ちゃんと仕事が進んでいるか信用ならずに何度も確認したり、余裕がないのでつい語調が荒くなったり、口うるさくなったり。こっちはこっちで大変だけれど、されるほうにとっては楽しくないだろう。疲労で胃が痛いのはたぶん私一人ではないと思う。胃潰瘍は人為的な伝染性の病である。

ところで、私がこれまでに学んだ一番手痛い教訓のひとつはこれだ。
「人はものすごく傷つきやすい。そして傷ついた人間は自分を守るためにはどんなことでもやる」
傷つけられた人間にとっては、周りには悪に見えることも自分の存在を守るためにやらざるを得ない、正当防衛である。だから罪悪感もない。むしろ、自分は正しいことをしていると信じていることもある。こういう人の内側にある理屈は本人になってみないとわからないものだ。

逆に言えば、守られて信用されていて、恐れのないときには、人は自分を守る必要がないので、のびのび自分の力を発揮できるということになる。この理屈に従えば、人をとことん信じて受け入れて、理解するように努め、決して否定しない、という地道な努力が人を育てて、その人のパフォーマンスを最大限に引き出すということになる。そうするとその人も自分を信用してくれるようになるから、こっちものびのび怖がらずに表現できるようになって、パフォーマンスも上がる、という相互の好循環が起こる、はずである。

問題は関係性である。自分の位置からいい循環が起こるような流れを作る努力をするのが大事なのだな、と思う。しかし、相手をとことん信頼するための持久力を保つのにはとても努力がいる。自分の方にも、それなりに心の中に飼っている恐怖があるものだからである。とりあえず、自分の胃痛を治しながら、これを蔓延させない策をねっているところである。

June 7, 2008

海外で暮らすということ

外国人として海外で暮らすことで、人は2つの自由を手に入れる。ひとつは自分の国の伝統からの自由であり、もうひとつは住んでいる国の伝統からの自由である。

久しぶりに日本に帰国して、短期間ではあったけれど、日本人として最低限の礼儀や態度をとろうとわりに一生懸命がんばったおかげか、そこから開放された今の生活はずいぶん楽だ。日本にいるときは、コンビニでレジ係に「ありがとうございました」と言われると、単なる形式とはわかっていてもやや恐縮したりした。私はプレッシャーを感じやすいたちなので、これが他の方にどれだけ当てはまるのかはちょっとわからない。インドにいるときは「日本人」をしなくてよい、という感覚は、少しだけなら想像していただけるのではなかろうか。

そして一方で、インドで生まれ育った人たちとは違い、外国人として、インド人の家族を持つでもなく暮らしている私には、「インド人」として振舞わなければならないという縛りはない。インドの人たちはそれぞれに家族や宗教や地域の様々な伝統の中で生きている。彼らは日本にいるときの私と同じように、その土地の伝統から自由ではない。私のような外国人はそれを興味を持って外から眺めているだけである。現地の人と結婚でもすれば、その伝統に頭から飛び込むことになるのだろう。

どれだけインドで人と親しくなろうと、土地と習慣に慣れて暮らそうと、「外側にいる人」としての立場が変わることはない。それが今は楽しく、自由で、新鮮である。そのうちいつか、それを少しはさびしいと思うだろうか。

モンスーン到来

予報ぴったりに、火曜日に最初の雨が降った。
会社で残業をしていると、ルームメイトから電話に「雨だ!早く帰っておいで」とメッセージが届いていたので、ひとりで暗いオフィスの窓にへばりついて外を見たら、外はちょっとした嵐になっていた。いそいでオフィスを出てアパートに戻ると、雨に興奮して酔っ払った2人の友人がへろへろに笑いながら階段を下りてくるところに出くわした。大人も子供もなんだかわくわくして浮かれてしまう、それがインドのモンスーン。

道では傘のない人がびしょぬれになって人が歩いている。シーク教の人たちがターバンの上にシャワーキャップのようなビニールのカバーをかけて歩いている。町の男たちは黒い合羽やレインジャケットを着て仕事をしている。街角ではどこでも折り畳み傘を売っている。去年買った傘を全部壊してしまった私は、今年また新しく黄緑色の傘を買った。

モンスーンは涼しい。
じわじわと部屋を侵略し始めたカビにおそれおののきながら、それでも夜はなかなか快適になった。実際のところ、ムンバイで本気で暑い時期というのはあまり長くない。モンスーンの前の4月から5月にかけてと、モンスーンをすぎてからの10月、11月あたりを除けば、かんかん照りで死にそうに暑い、という日はそう多くないのだ。
あと1ヶ月もすれば、真っ青な空が懐かしくなるだろうな、と去年を思い出しながら雨を眺めている。

極楽は去り難し。

ムンバイから日本へのトランジットでシンガポール空港に立ち寄った。動く歩道に乗っていると左の壁にこんなシンガポール空港のキャッチコピーが何枚も掲げられていた。

If you find a heaven, it’s always hard to leave.

極楽は去り難し。確かに。しかし去ることを強いられるのが世の理です。切ない。もちろんこれはシンガポール空港がいかに快適であるかを訴えたコピーですが、よくよく考えてみると空港は天国に似ていると言えなくもない。

音のしないフロア、ぴかぴかのショップ、そして数え切れない数のレストラン、バー、カフェ。あのふわふわと所在のなく、目的的行動と目的的行動のはざまで一時その目的自体を忘れるような心持が、まだ行ったことのない極楽の様子に似ているような気がします。しかしもちろん本当の極楽とはちがって、お金がなければどの店にも入れない。

ひとりで空港のバーでビールを飲みながら、フロアをうろうろする人たちをぼんやり眺めていると、自分がこれから再びインドに戻って暮らそうと望んでいる、その意思をふと遠くから見つめているような不思議な感じがする。うーん、なぜ戻りたいのだろう?と思いをめぐらすが、よくわからないのでまたビールを飲む。

ゲートまで移動して、いよいよ搭乗の手続きをして、「さて」、と飛行機に乗り込むと、ようやく生きた心地がしてくる。意思を持つことと生きることとはかなり密着した関係にあるのだな、と思った。その意思や目的そのものに、自分や人を説得できるような何かがあっても、なくても。