August 18, 2009

ザ・トーカティヴ・アメリカン

アメリカ人の友人がいる。彼女は元同僚で、驚くほど人の話を聞かない。放置しておくと、1、2時間は平気で一人で話し続けている不思議な人である。

こう言ってはアメリカ人の人たちは心外に思うかもしれないけれど、私の少ない経験からすると、アメリカンは一般的傾向として、説明過多である。ものすごいスピードの英語で、話題の背景をことこまかく説明する。意見を言うときには詳細な理屈を欠かさずつける。「だいだい雰囲気でわかってくれるだろー」という甘えがない。10回に3回は結論のない話をし、残りの7回は笑ってごまかす、という私のような投げやりな態度では生きていない。そのため結果的に、ひとつひとつの話が長くなるのであろう、と推察する。

その友人は、そのアメリカン傾向に10をかけたぐらい話が長い。これは国民性とはかけ離れた傾向である。なぜそんなに話すことがあるんだろう、と不思議に思って一度話を聞きながらダイアログ分析をしてみたら、どうも同じ説明を微妙に言葉を変えながら3回ぐらい話しているせいなのである。そこまでして説明しないとわかったかどうか心配なもんなんだろうか、この冗長さを削って効率を上げようとは思わないのか、と不思議に思うが、まあ人生には思ったより余す時間があるわけだし、本人がいいと思っているならそこを追求する必要はない。ただし、急いでいるときには結構困る。トイレに入ろうとして洗面所でばったり会ったりするとなかなか聞く側としては問題である。

さらに、彼女はまったく聞き手の意見を必要としていない。すべての話が自己完結しているのである。だから、「あなたはどう思う?」という展開になることがまずない。インディペンデントにも度が過ぎている。別に人の意見なんか必要としていないのだ。自分が思ったことを自分が思ったとおりに実行し、起こった出来事を分析して独自の結論を出し、それを人生に一人で活かしていくだけなのである。だから、私が何か意見なり感想なりを会話の間にさしはさもうとしても、さしはさむ隙がない。さしはさんだとしても、たいていは無視である。時々何かに挑戦するために質問なり感想を投げてみるのだが、たとえ2センテンスねじ込んだとしても、まったく彼女のアンテナには引っかからないのである。まるで虚無に向かって叫んでいるような、なんとも不思議な気分になる。

しかし、この強烈なキャラクターと、Extremely Independentな存在としての不思議さがどうしても気になって、時々コーヒー・テーブルを挟んで尽きない話を聞いている。多分引越しでもしたら、私のことなんかあっという間に忘れ去るにちがいない、と確信が持てる。しばしば頭に空白が訪れて、いろんな人間がいるなあ・・・と軽く意識が遠くなることがあるのだが、気にしてないみたいだからべつにいいのだ。

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