September 8, 2009

「愛」についてのそれていく話

今週はすさまじい量の仕事に追われて気持ちが殺伐としているので、愛についてつれづれなるままに語ろうと思う。

マラティ語で「アイ」は「お母さん」という意味なんだそうだ。だからムンバイに住んでいて自分の名前を言うと、「え?」という顔をされることが非常にひんぱんにある。家族連れがいっぱいのショッピングモールの食堂なんかでごはんを食べていると、子どもが「アイー」とおかあさんを呼ぶ声がいろんなところから聞こえてきて、いちいち振り返ってしまう。

インドのオフィスでは英語が公用語なのだが、「Ai」 は 「I am」 の「I (私)」 と発音が同じなので、時々混乱を生じる。例えば仕事の打ち合わせをしていて、「アイ ウィル ドゥ ザット」 と誰かが言ったとき、Aiがやりますよ、といいたいのか、自分がやります、と言いたいのかがとっさにわからない。そのため、混乱を避けるために「Ai Kanoh will do that.」 とフルネームで言われることがしばしばである。「アイカノウ、ランチもう食べた?」とか聞かれるとかなり違和感があるものの、まあ仕方ないから我慢している。

谷川俊太郎さんの詩にこんなのがある。

悲しみは むきかけのりんご
比喩ではなく
詩ではなく
ただそこにある むきかけのりんご

感情はその場限り、対象に宿る。悲しみだけでなく、愛も同じだ。ひざの上の猫や、流しに立てかけられたぬれたままの食器や、朝のさめた湯たんぽや、書いたけど出さないままの手紙や、そういうもの、それそのものの中にあるわけで、だから優しい言葉や態度や、愛を表現するための特別な媒介はいちいち必要ないといってもいい。感受性さえあれば。

人間の感受性はとても偏っているので、たとえば机に置きっぱなしになったコーヒーカップ一つを見ても、そこに悲しみを見る人もいれば愛を見る人もいる。恋人のぶっきらぼうを無関心と取るか、信頼と取るかも、その人、そのときによって変わる。もしそれがある程度自分の心がけしだいでコントロールできるものなら、愛とか、なるべくよきものをいつもそこに見ていたい。

教師が一途に信頼することによって生徒を成長させるように、意外なことに、対象になにを見出すかによってその対象そのものが現実に姿を変えていく。だからせめて自分からの視線は常にあたたかいものにして、そういうソフトな方法で物事を変化させていけたらいい。

という、それつづける愛についての話であった。

4 comments:

  1. なんだか、ハッとさせられました。つまらないとか、退屈とか、そんなネガティブな気持ちで向き合ってたら、本当にそうなってしまいますよね。勉強も就職も人生も。。。なんとか、なんとか、プラス思考でポジティブなふうに物事を受け止めて生こうと心に誓いました。

    エッセー書こうとしてみたんですが、よくよく考えてみると夏らしいことをまだぜんぜんやってないので、できませんでした。日本はもう残暑ですが、今からだって夏をとりもどそうと思いました。

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  2. お、Akemiさん。コメントありがとう。エッセイ、間に合うといいねえ。「夏らしいことをやってない私」というテーマで書いたらどうなんだろう。夏にダウンしている場合は、何もせずそうめんでも食べて寝てるのが一番いい夏のすごし方かもねえ。

    「何をやるか」ということにこだわらずに、自分にたまたまめぐってきたチャンスをなんでも自分の味付けで料理してやる、というのも生きる方法としては一つだと思います。大学とか就職とかって「専攻」とか「将来の計画」みたいなものを問い詰められて苦しいけど、あんまり先のことを考えずに(ただ、人前では一応ものすごい考えているフリをしつつ。)Akemiさん賢いんだから人生どうにでもなるよ。大学の授業とか就職活動って、そりゃ退屈だよなあ・・・。

    悲しい目で見ると悲しく見える、退屈な目で見ると退屈に見える、という現象は、一応頭で理解しておくと、ちょっとニュートラルに世の中を見るのに役に立つと思って、私もいつも自分に言い聞かせています。

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  3. 間に合わなかった…と落ち込んでいたら、なんと、コンテストの応募締め切りが延長されているではないですか!!一度は「だめだったなぁ」ってあきらめたことにチャンスをもらったときって、すごくやる気をかきたてられます。何が何でもエッセーを書く気になりました。絶対応募するんでTシャツください。毎日着て学校に行きます。(この「一度はダメとみせかけて再度チャンスを与える」技法、いろんな場面で応用できそうですよね)

    大人になるにつれて、先のことを考えるのがあまり好きではなくなってきた気がします。不確定な要素にワクワクできるときと、不安でそわそわするときがあります。心の余裕の違いなんでしょうか。

    慢性的にゆるやかに暗い気持ちですごしがちなので、アイさんの言葉を心に刻んでおきます。
    それにしても不思議なのは、暗い気持ちでいるときって、そのことにすら自分では気づかないということです。自分のまわりに透明な膜が張っていて、自分が吐き出す憂鬱な空気をまた自分で吸い込み続け、循環式ろ過装置のついた水槽にいる金魚が、水がにごっていることに気づかないように、暗い気持ちでいることすら意識できなくなってくるんです。
    そういうときの特効薬は自分以外の他人です。スーパーのレジのおばさんとか、道端で交通整理をしているおじさんとかと一言だけ言葉を交わした瞬間に、自分を囲んでいた膜がふっと薄らいで、外の正常でニュートラルな空気が入り込んでくるのを感じます。その空気を吸い込んではじめて、「ああわたしはまた鬱なこと考えてたんだ」と気づき、目の前のおじさんの笑顔にはっとさせられたりするのです。

    ということでいまのわたしには孤独は向いていないのですが、相変わらずの一人暮らしで、なかなか日々は難しいです。孤独に強い人間でありたいと願うのは変なことなのでしょうか。


    秋の夜長でつらつらと変なことを書いてしまいました。この調子でつらつらとエッセーも書いてしまいたいもんです。わたしのエッセーお楽しみに!

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  4. エッセイたのしみだ!そうなんです。締切延長だから安心して休みの間に書いてね。

    Matsutaniさんはふわーっと低空飛行でいいんじゃないでしょうか。あんまり浮き上がろうとがんばりすぎると消耗するしなあ。なんか落ちすぎない、上がり過ぎない、気持ちいいポイントを見つけて落ち着くといいと思います。

    他人の存在で、「あ、今まで私完全に自分の世界に入り込んでたわ」と気づくこと、言われてみると確かにあるなあ。「循環式ろ過装置のついた水槽にいる金魚」って言いえて妙だねえ。人の冷静な態度に出くわすと、あれ、なんでこんなどうでもいいことを大事そうにぐるぐる考えていたのか、私は、と我に返ることはよくあります。逆に躁傾向のある人の場合は、自分だけ興奮して暴走してたら、ふと我に返ったときだれもついて来てなかったりとかね。

    みんな自分の頭の中を生きているんで、まあ自分だけではないと思えばちょっと気は楽になるかもしれない。

    孤独に強くなるのは時には必要だと思うけど、極端になりすぎると、自分の個性が凝縮しすぎてはたから見ておかしな人になる危険性があるんだよね。ほどほどに寂しがりのほうが、健全だと思います!

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