October 12, 2009

3年目のディワリ

<お知らせ>
ブログを引越ししました。新しいURLはhttp://aikanoh.wordpress.com/です。英語ブログと日本語ブログを合体させたブログです。これからのポストは新ブログ上でアップデートしますので、よかったら訪問してください。よろしくおねがいします。
<お知らせ終わり>


ムンバイの町で迎える、3度目のディワリである。9月の終わりにナブラトリの祭りが始まり、それと同時に北インドの行商人が集まるクラフトフェアがやってきて、去年と同じ顔ぶれの商人が手織りの布や家具を売り、お祭りの終わりとともに去っていった。ナブラトリが終わるとすぐに街中がディワリ一色になる。ディワリは光の祭である。電飾が街中に施されて、歩道に灯篭やランタン、ろうそくや、ランゴリのための色鮮やかな粉を売る店がたくさん現れはじめる。

ディワリには、他のヒンドゥ教の祭とは違う落ち着きと親密さがある。ホーリーのような狂乱でもなければ、ガネーシャ祭のような遊び心でもない。ガネーシャ祭がお盆なら、ディワリは正月である。新年の夜の神社の灯篭の光や焚き火を思い出して、2年も日本の正月を見ていない私はいつもこの時期になると懐かしさに駆られる。

去年のディワリには、親しい人たちが立て続けに街を離れたこともあって、残った自分がいつ同じようにここを去るのかと思うと、祭の準備に忙しい街の様子がまるで未来に見る思い出の光景のように思えた。それから1年たち、今年はまた違った種類の感慨で街の風景を見つめている。自分が見つけた、自分の街にいる、という思いがしている。なんだか「魔女の宅急便」みたいだ。

なじみの店ができ、付き合いができ、路地裏の小さな露店まで町の地図が頭に書き込まれ、以前はいちいち動揺して人に助けを求めていたトラブルや問題が、当たり前の日常になりつつある。どこに甘えていいのか、何に警戒するべきなのか、力の入れ加減が体に刻み込まれていって、少しずつ楽になった。もう詳しくは覚えていないが、何度も何度も失敗したり、小さな詐欺や危ない目にあったり、そういう経験を単純に層にして、この街の記憶の塊のようなものの実がぎっしり詰まってきた感じがする。

どこにいようと人は変わらないし、変わらない限りどこにいて何をやっても同じだと言う人もいる。しかし、人は土地によってある程度変わることができると私は思う。その人の心が柔軟でさえあれば。新しい土地には、人を謙虚にし、目を開かせる力がある。わからないという気持ちが、注意を集中して、自分の思考の枠組みの外にあるものをそのままの姿でとらえようとする態度を作り出す。そうして外にあるものを素直に自分に組み込んでいくことで、ちゃんと人格にも変化が起こり、成長する。

街の記憶が密になることによって、自分の実もまたがっしりしていくような気がするのかもしれない。そのうちまた空っぽになりたくて自分はどこかに行くのだろうか。振り捨てなければならない辛い記憶もまた同じだけ増えて、密度を増していくのだろうか。それもまたいい。いつか新しい土地を求める時のために、あるいはいつか逃げ出してどこかに行かなければならない時のために、とにかくずっと、心だけは死ぬまでやわらかいままでいたいものだ。そうしたら、どこでも何とかなる。

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