April 24, 2009

外側と内側

ムンバイのマジョリティはヒンドゥ教徒らしい。イスラム教徒とキリスト教徒がそれに続き、シーク教、その他の宗教がさらに続く。ちょっと前にブログでMumbai Meri Jaanという映画の紹介をしたが、それに関連した話である。

たまこのブログでも詳しく書いているけれど、物語の中には、イスラム教の人々を敵視している男が登場する。彼はヒンドゥ教徒で、イスラム教徒を無差別に蔑視し、テロの関係者ではないかとかぎまわり、つけまわしたりする。物語の最後には救済があり、彼はイスラム教徒の青年がいかに自分と同じ魂を持っているかを知るようになる。素晴らしいエピソードである。

しかし、観おわった後にどうしても、これをイスラム教徒の人が見たらどう感じるのか、とちょっと心配になってしまう。ちょうどアメリカの視点から作った戦争映画で、日本兵が実は同じ心を持った人間だった、という描かれ方をするのと似たような薄気味悪さを感じるのではないだろうか。こういう現象は、一つの視点から作品を作ったときにはどうしても起こりうることである。

灰谷健次郎の「兎の目」という小説がある。新任の若い女性教師が食肉工場勤めの家庭の貧しい子どもたちとふれあい、教師としての生き方を見出していく物語で、名作である。貧しさと迫害の外にいる人間からすれば、そこには発見がある。しかし、もともと内側にいる立場からしてみれば、自分たちの中に当然ある人間性を、今ごろ発見されてもね、ということになるだろう。

もちろん迫害されているものにとって、この種の描かれ方に社会的利益がないわけではない。例えば、「パールハーバー」みたいな日本軍が徹底的に悪として描かれている作品が作られるよりは、「父親たちの星条旗」や「硫黄島からの手紙」のような作品が作られたほうが日本人にはメリットがあるかもしれない。

しかし、そこには外側にいる人間の高慢さも同時に現れてしまう。それが、どうしても不気味でならない。

Mumbai Meri Jaanのような作品がムンバイで作られ、受け入れられるということは、部分的にはそれだけヒンドゥ教が優勢であり、ムスリムのほうが弱い立場にあるということの表れにもなる。それをさらに外側から見ている日本人の私にとっては、ただ冷静にその構図が浮き彫りになってみえる。

誰が誰に向かって作品を作っているのか、どれだけ普遍的に聴衆をキャプチャーしているのか、そういう部分が問われるのかもしれない。どこまで自分の立場を超えてものを見ることができるか。他人と生きるときに避けられないテーマだが、そこには限界があるのだ。

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