開高健の「夏の闇」を読んでいる。久しぶりに、読み出したら字を追う目が止まらなくなる文体に出会った。
物語の内容は、本当はどうでもいい。細部を偏愛するたちなので、本を読むときにストーリーなんかほとんど真剣に追っていない。言葉づかいと、一文の中にあるぎゅっとするひねり、漢語と和語とカタカナのバランスと並び、そういうものを求めているだけである。読んでいて脳に波打つような心地よい文を見つけたら、ずっとぐるぐる同じものばかり読んでいて飽きない。
本の半分ぐらいまで来たが、「夏の闇」は精神的な剥離の恐怖におびえながら旅に拘泥し、怠惰な性と眠りに沈みこんだ中年男の話である。いつも眠たがっていることと、モツが大好きなことをのぞけば、主人公の男と読者である自分との間にほとんど共通点がなく、独白と自己分析を読んでもほとんど身に覚えがないし、その苦悩に共感できない。しかしそれが鋭くて面白い。そんな感じ方をするのか、と新しい他人の感性を学んでいるような感じである。
「私は足の裏や睾丸の皺から眠り始めるのである。そこから形を失い、体重を失っていくのである。」
さっぱりわからない。そういうもんなのか。それはよいとして、「皺から眠り始める」というこの「…から…」の使い方にぐっときてしまい、音楽で言ったら絶妙のところで半音下げられたみたいに頭に残る。ふつう体の部分「から」眠り始めるとは言わない。でもわかりそうな気がする、このもやっとしたところが好きである。
「旅はとどのつまり異国を触媒として、動機として静機として、自身の内部を旅することであるように思われるが、自身を目指すしかない旅はやがて、遅かれ早かれ、ひどい空虚に到達する。空虚の袋に毎日々々私は肉やパンや酒をつぎこんでいるにすぎないのではないか。」
私は旅人をやったことがないし自己の内部を旅する傾向もないので、この内省が身につまされてわかるわけではない。それはどうでもよくて、この「静機として」という聞いたこともない言葉をさくっと使っているところがなんかかっこいい。ここで「動機として」の一回だけでは音感的に物足りなくて「静機として」を思いついて入れたのだろうと思う。「静機」とは何を言うのかよくわからないのだが、こういう飾りが好ましい。一文一文の音と形にこだわっている。
ようはスタイルである。形が全てである。ソンタグはスタイルのない“内容そのもの”は存在しないと言っている。私はそういう深い芸術論は本当はよくわからないけれど、ひとつひとつの文章がかっこよければそれでいいし、そこに全てがあるんじゃないかと感じる。そういう意味では、論文と小説は同じように長文で成り立っているという点を除けば、ほとんど共通点はない。
March 17, 2009
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