これまでの経験からいうと、インド人のヒンドゥ教徒で自分のカーストを自己紹介で言う人間はブラフマンだけである。人に尋ねにくいデリケートな話なのであまり具体的な情報が入ってこないせいか、2年間ムンバイに住んでいてもいまいち現在のインドのカーストシステムがどうなっているのか私にはいまいち全体像がつかめない。しかし一つだけ言える事実は、自己紹介で自分がブラフマンだと言う人はブラフマンの生まれであることを誇らしげに語るということだ。
こういうとき、「あ、そう。・・・で?」という反応以外にはしようがない。その価値観の完全に外にいる人間からしてみれば、なにがどう誇らしいのか、びっくりすればいいのか感心すればいいのか、まるでわからないのである。こういうことがあると、なんとなく不愉快なような、奇妙な感覚が残っていつまでも気になる。そんなことを誇りにして恥ずかしくないのか、と正直反感をもつこともある。
でも実際には、ブラフマンであるということがその本人にとってどういう意味を持つのかは私には分かりようがないので、つまらない議論をしないで黙っているよう心がけている。そういうファンダメンタルな部分で価値観が違う相手とファンダメンタルな部分で話し合っても、意見が一致したりすることはほとんど永久にないといってよい。
何に誇りを持つべきか、持たざるべきかは、文化や個人の価値観によって違うからなかなか他者と共有できない。しかし、それ以前に、「誇り」みたいな高尚な感情そのものの存在が不気味だし、危うい香りがするから好きになれない。人が自分について何かを誇りに思っている様子をみるとなんとなく惨めに見えるし、自分自身の中に何か誇らしい気持ちわいてくると、頭の端でもう一人の自分が自分の幼稚さを笑っている声が聞こえてくる。
それとは反対の表現に「謙虚」があるが、「謙虚」は「誇り」のコインの裏表である。
以前、インドに住んでいるイギリス人の知人に「インドは英語が通じるから、イギリス人には便利は便利だよねぇ」というようなことを言ったら、「自分はイギリス人だから、世界中のどこに行っても英語でコミュニケーションできる。外国の人たちは一生懸命英語を勉強して、イギリスやアメリカの人間と話そうと努力している。そのせいで自分は怠惰になって、他の国の言葉を学んで現地の人と話すという謙虚さを失ってしまう。だからできる限り英語以外の言葉を学ぼうと努力している」と真剣に返された。こういうのをノーブレス・オブリージュというのか、と思った。素晴らしい態度である。
しかし、英語ネイティヴでない人間が聞くと実際にはあんまりピンと来ない理屈ではある。旅行したり、国際的なビジネスやアカデミックな世界では英語ネイティヴであることがアドバンテージになることは確かにあるのかもしれないけれど、それはそれである。何も勤勉だから英語を勉強しているのではなくて、必要に駆られて勉強しているのである。そこを生きる姿勢の話に読みかえられると、必然的に英語ネイティヴでない人間のほうが社会的な立場上、下であると暗に言っているように聞こえる。そういう感覚は、無意識に上からものをいっている人間には感知できないが、文脈的に下の立場にされた人間にとっては身にしみて感じることである。
他人の価値観はほんとうにわからない。共有しようとしないで、ただ現象として理解するしかしょうがない。他人もまた、私の価値観に対して同じだけ謎に思い、ときには反感を感じているのだろう。
May 30, 2009
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こんにちは。
ReplyDeleteiKnowでフォローさせていただいていますYakisobanこと、焼きそばです。
インドには、まだまだカースト制度が残っているのですねぇ。
IT系の仕事をしているものですから、インド人の優秀な技術者の話題を目にすることが時々ありますけど、カースト制度から抜け出すためにITを選んでいるというような話しも聞きます。
自己紹介で自分のカーストを名乗るっていうのは、日本でいえば明治時代の元士族みたいな感じでしょうか。
現代人の私には、それすらピントきてないかもしれませんが、まだまだそんな感覚がインドでは、息づいているのですね。
誇りと驕り、難しいですね。
おお、ヤキソバンさん!こっちのブログにもコメントを頂いてすごくうれしいです。
ReplyDeleteカーストについては人によって認識が違って、よくわからないんです。ある人は、もうカーストなんて古いしきたりで関係ない、貧富とカーストは今は無関係だといいますけれど、一方で、「うちのカーストではこういうしきたりでね…」という話もよく聞きます。たぶんカーストという言葉には身分制度の意味以外にも生活習慣とか地域の風習とか職業とかいろいろな概念がふくまれていて、全体像がつかみにくいんだと思うんですが…。
私もそういえばIT関係の仕事は生まれとは無関係にいい職につけるという話をどこかで聞いたことがあります。
英語のもってる権力について。うーん、それは難しい話だね。そう聞くと、英語ネイティブの人って必要に駆られて外国語を勉強する必要もないし、かといってがんばって勉強しても「上から」と解釈されちゃったりして、ちょっと逆にかわいそうなかんじもするけど。しかし、日本がもし戦争中に植民地をもっと持っていて、世界中で変形的な日本語(インド人の英語とか、日本人の英語とかみたいなもの)をしゃべる人がいっぱいいても、困るだろうね。そういう人たちとコミュニケーションをとる能力は、普通の日本語運用能力とはまた違う気もするし。
ReplyDeleteそして「カースト」について。私も全然分かっていませんが、教科書的な説明のひとつとしては、ヴァルナと呼ばれる4つの正統ヒンドゥ的階層(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ)と、ジャーティーと呼ばれる職業集団(つぼ職人、洗濯屋、ミルク屋など)が、「カースト」(階級という意味のポルトガル語)という名の下にごっちゃになって扱われているという問題があります。
バラモンだとかなんとかっていうほうのヴァルナ的「カースト」が固定化されたのは、イギリス植民地下で行政官がかっちり統計をとってからのことで、そもそも普通のインドの人々の間では、どのジャーティーがどのヴァルナに属するのかは不明確だったり流動的だったりしたという説も。
うちの「カースト」では、とか、うちの「コミュニティ」ではこういうしきたりでっていうのは、きっと職業集団としてのジャーティーのほうを指しているんではないかな。バラモンかどうかなんていうのは、それこそバラモンしか気にしていないじゃないかと思う。
農村とかでは、その土地固有の上下関係があるだろうけど、都市ではどうなんだろう。その辺、調査できないかなーと思案中。
日本がもっと外国を侵略してて、いろんな日本語が世界に広がってたらって、面白いね。どうなるんだろう・・・。英語とちがって、漢字とカタカナとひらがなとあるから、分派して地域言語ととけこんだらとんでもないことになるんじゃないか?
ReplyDeleteそうそう、そのヴァルナとジャーティーの分類がわからない。日本人が一般的に理解している、いわゆる「カースト」ってヴァルナだよね。ヴァルナの各階級の中で、複数のジャーティーに分けられるって訳でもないのかな?
都市でも社員がインド人ばっかりの会社なんかだと、カクタスとはまた違った、かなり固有の厳しい上下関係があるみたいだね。インドの私企業の組織のあり方ととカースト制度との関連性なんか、先行研究がないのかな?