July 21, 2009

寿司と日本人アイデンティティ

最近家族がそろそろ日本に帰ってこいとアピールしてくる。父は「日本人の平均寿命はどんどん延びている。それに比べてインドは空気汚染と水質汚染もひどく環境が悪いらしい。だから早く日本に帰ってこないと、長生きできないぞ」と寿命を理由に脅してくる。母のほうは、「私はどうでもいいんですけど」と言いながら、「ところで、あなたの歯科助手のお友達が最近結婚して仕事をやめたから、近所の歯科医院でスタッフを募集してるよ」と軽くプレッシャーをかけつつ転職をすすめてくる。

心配してくれる人がいるのはありがたいことだと思います。しかし日本のテレビや新聞はあんまり愛知方面にインドのよくない情報を流さないようにしていただければ私としては助かります。

ところで、インドでしばらく暮らしているうちに、だんだんインドを対照として見た自分の日本人アイデンティティが徐々に薄れているように思う。以前にも書いたかもしれないが、インドと日本は社会の構造も人間の行き方も仕事のやり方もかなりちがうために、インドにやってきた日本人は必然的に「日本人としての自分」を意識せざるを得なくなる。その結果、日本の文化にやたらこだわりを強めていく日本人もいる。

私も最初は「何でこんなに常識が違うんだ」、とびっくりして、仕事上で葛藤を起こすこともあったし、自分の理屈が通用しなくて困ったこともかなりあったように思う。でもなんだか今はなじんでしまった。正直なところ、今自分には日本的常識があるかどうかがわりと心配である。

日々の生活でも、ささいなことでインドによって照らし出される日本の異質さと、逆に日本によって照らし出されるインドの異質さがひたすら面白かった。もちろん今でも知らないことばかりで、インドの文化や社会そのものに対する興味は底を尽きない。しかし、以前ほど自分の中に「日本とインド」という強烈な対照性が存在しない。その部分へのこだわりが弱くなったような感じである。時々日本に一時帰国すると、昔の感覚が少しだけよみがえるのだが。

そんなふうで、じゃあ自分にとって何が最後まで捨てきれない日本へのこだわりだろうか、と考えたら、これは寿司かな、と思う。やはり人間、最初に来るのも最後に残るのも低次の欲求ということなのか、日本の食べ物への愛とこだわりだけがいつまでも薄れずに残っていく。人によってはラーメンとかお好み焼きらしいが、私にとっては生の乗った寿司である。お祭りのちらしや、コンビニのパック寿司、農協の火曜日の寿司バイキング、それから祖母が市場で買いたてのまぐろを、酢を混ぜたばっかりのまだほんのりあたたかいごはんに乗せてくれたふわふわの家族にぎりの記憶が、ふしぎなぐらい強い記憶になっていくのだ。

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